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四十九日は無視、無宗教の葬式は最高

この記事の最後に少し書いたが、約1か月の集中治療室での治療を経て、夫が亡くなった。前日の夜に病院から「今日明日あたりくらいに心臓が止まるかも」と連絡を受け、本当にそのまま明け方に息を引き取った。
ベッドサイドのモニターに映る脈拍が平らになっていくのとともに、病室のブラインド越しに見える空が徐々に白んでいった。仕組まれたかのように去り際を印象付ける光景だった。

わたしは人生で初めて喪主となった。
夫を看取るまで彼の状態を見守ることが最優先で、その後のことは考えていなかった。考えられなかったし、考えないようにしていたところもあった。
つまり諸々ぶっつけ本番状態で、それでも何とかなったがやはりそれなりには大変だった。

まず何より、単純に時間がない。いろいろなことをさっさと決めねばならず、優柔不断を自負している自分にとってはストレスのかかる作業だった。
人が亡くなってから葬儀会社を手配するまでの時間は限られている。病院にいつまでも遺体を安置しておけないからだ。なるべく早く迎えに来てもらう手筈を整えなければならない。
わたしの場合は、明け方に夫を看取った後、葬儀社を手配するのに与えられた時間はおよそ2、3時間ほどだった。その時間で自宅に一旦戻り、どうしようどうしようと言いながら、結局Google検索で上の方に出てきた聞き覚えのある葬儀社に連絡を取った。

あらかじめ葬儀会社などの検討をつけ、さらに可能なら複数の会社の見積もりを比較しておくところまでできていれば困りはしないだろう。だが夫はまだ30代前半と若く、延命ではなく今後も普通に生きることを前提に治療をしていたので、そのような準備は全くしていなかった。せいぜい「もし死んだら葬式とかどうする?」と雑談程度に話をするくらいだった。
だが、意外とこれはこれで役に立った。
かしこまった遺言書がなくても、「故人が生前このように話していたので」の一声は意外と強力な武器になる。たとえば、それまで大して関わりのなかった人間が急に口を挟もうとしてきた時なんかは、この武器の有用性が発揮されることがある。

夫は「結婚式みたいな葬式がしたい」と話していた。「読経聞いても眠くなるだけでしょ」と形式的でしんみりした葬儀に興味がなさそうだったし、わたしたちが結婚するときに挙式を挙げなかったからというのもある。
それに対してわたしは、「事前にちゃんと準備しないとわたしが無理だよ、せめてお別れの会とかにしようよ」と返した。その時はそこで話は終わってしまい、結果的にそれ以上話を進めることはできなくなってしまった。

でもこのやり取りがあったから、葬儀の大まかなやり方に関してはほぼ悩まずに決めることができた。
葬儀は近親者のみで執り行い、その分いつか改めて親族抜きでお別れの会を開くことにした。葬儀にはお坊さんは呼ばず、通常読経してもらう時間は各々自由に過ごす時間となった。
夫もわたしも無宗教なのでこのような形にしたが、この選択はすごくよかったと思う。仏教のルールに則らないだけで、いろんなことが楽になる。香典返しをいつ送るかも、仏壇のお供えのことも、今後の法要についても、何にも頭を悩ませなくてよくなった。

仏壇も準備していない。先日葬儀社からもらった仮祭壇を撤去して、代わりにカラーボックスに遺影や線香を立てる香炉を並べた。仰々しさがなくなり、夫のためのスペースが当たり前のように部屋に存在している。
線香をあげるのは本来宗教的な行為だが、線香の煙が漂う中でおりんを鳴らして手を合わせるのは心が鎮まる感じがして好きなので能動的にやっている。でも忘れることもあるから毎日はできていなくて、やりたい時に適当にやっている。
最近はわが家の3歳児が「チーンしていい?」とおりんを鳴らしていいか聞いてきて思い出させてくれることすらある。わたしが線香をあげようとすると「ぼくもやりたい」と言うので、火をつけるところから拝むところまで一緒にやっている。3歳児も何度かやるうちにすぐにやり方を覚えたようで、それなりに様になっている。

少しずつ、夫の死が生活に溶け込んでいる。
それでも譲れない一線は確かにある。唐突に、強烈に、「夫が今ここにいればいいのに」「どうしていないんだろう」と感じられる日が訪れる。
考えてもどうしようもないことは知っている。夫の死に至るまでの道筋には納得している。それでもそう考えてしまう自分のことを、みっともなく思わずにいたい。


ありがとうございます。