リスペクトが他者の力を引き出す



長年よいエネルギーを創造することとそれを維持することが困難な環境にいた。
うまくいく未来がすぐそこまできていたのに誰かの悪意が入り込み頓挫することもたくさんあった。
それが嫌でエネルギーがどういった秩序の中で動いているのかを調べるようになった。
誰かが教えてくれるものではなかったし、教えてくれる人もそこまで物事に深化しているようにはみえなかった。
自分より詳細にエネルギーの構造について理解している人もたまにはいたけれど、当人にとって
都合の悪い現実を受け入れる誠実さのなさが由来して盲目に陥っているようにみえることもあった。
特殊な設問には特殊な解が必要になる。
エネルギーの構造研究において自分は、最初から終盤までずっと孤独だった。

しかし最近は違う。
自分は引きこもりをやめ、孤独ではなくなりより密接に人と関わるようになった。
だから人との間で起こるエネルギー構造の研究が本格的に始まった。

発見した事実の中で重要な項がいくつか存在する。
それは、人は他者の可能性を引き出すことも殺すこともできるということだ。
比喩でも環境的な意味でもない。十全なエネルギーフィールド上で、ということだ。
大谷翔平は幼少期から父の英才教育を受けていたというが、メジャーで活躍するマインドや
メンタリティは本人のセンスによるものだとみている。
彼が「憧れるのをやめよう」といってたからだ。
これほどエネルギー構造的に優れた答えを、メンタリティにおいて発揮しているプロプレイヤーを
見たことがない。

憧れとは、他者の成功にエネルギーを注ぐことである。
正確に表現すれば他者の素晴らしいイメージを現実化するのに一票を投じることである。
(同じエネルギーフィールドを共有する野球や対戦型のスポーツでは相手に塩を送る行為になる)
こう聞くと案外好印象に感じるかもしれない。しかし、”自分のエネルギーを使って”
という点を重く考えなければならない。
エネルギーを重要なリソースとして考えるなら、何かに憧れるという行為は避けるべきである。
一方で憧れをきっかけとして停滞していた人生が押し進められることもある。
エネルギー的観点から考えると、憧れ続ける、あるいは不能感に裏付けされた”自分には無理だ”という感情が憧れとして表現されている状態、を避けるべきである。

人はエネルギーという大流の一部の支流を感情と呼ぶ。
エネルギー構造的では体力や時間と同じく、感情は重要なリソースであると考えなければならない。
より強いエネルギーの支流、信念に影響を及ぼすからである。

感情、信念、そして人生。
これらは切り分けて考えることができない。
感情が人生に色を付け、信念が構造を創る。あとを見返した時(あるいははるかな先を見たとき)
人はその流れを人生と呼ぶ。

我々は森羅万象の一部でありながら、その森羅万象の流れ(エネルギーのベクトル)を
変更する権限が持たされている。

「リスペクト」はどうだろうか。
リスペクト、と呼ばれる人間間で巻き起こるエネルギーの特定の構造(あるいは姿勢)は、人生にどう影響してくるのだろうか。

まずリスペクトがない状態とは、支配の状況を指していると考えていいだろう。
つまり一方がもう一方にコントロール権があると主張することである。
片方にリスペクトの点がありそこから一直線上に支配の点がある。
時や状況次第で、一直線上を右往左往すると考えてもらいたい。

典型的でもっとも身近な支配のモデルケースでは親子が考えられるだろうと思う。(それか束縛的な恋人など)
倫理的にどうであれ、ことエネルギー的に考えれば、子は親の所有物であるといえる。
(遅かれ早かれ所有権を手放すとしても、初期状態では。)
自然の摂理だと思う。しかし必ずしも自然の姿をしていればエネルギー的にうまくいっているとはいえない。

あるアドラー心理学者は、親と子が一人の人間として触れ合えるよう、敬語で話すようにしているという。
その子は一番の味方であるべき親がまるで他人になったように感じるだろう。
不自然である。

しかし両者の間には、確かにリスペクトは存在する。

事エネルギー観点から考えてみると、アプローチはいい、と思われる。(少なくとも支配的であるよりかは。)
しかしこれも、あまり効果的とは思えない。
(アドラー心理学的にも、そういったアプローチが正解であるようにも思われない。アドラーは人と人との間に
慣れ親しみがない状態が”平等である”と考えていないのではないだろうか)

人と人との間にある”適切な距離感”というものは難解なように思われるかもしれない。
適切な距離とは、時、場所、人、関係とそしてその人のバックホーンによって決まる。

ずれれば直しずれれば直しという調整を必要とするものなのだ。


支配のない関係はこれを義務とする。

次にリスペクトのある関係を考える。
それは相手の選択権をはく奪しないことという基本的なものの他に、”相手は基本的にうまくいく”と知っている
状態である。
支配的な親子関係では「私の言った方にしておきなさい!あなたはいっつも○○(例えば、時間に遅れるの)だから」
と子供の選択権を奪う発言が日常にあふれる。
そしてその発言が溢れているうちは、まだ初期状態である。
後期においては、子供は必ず親の顔色を窺うようになり、自分にあるはずの選択権がないことにも慣れてきて、親が
決めることを待とうとする。あるいは親が支持するであろう方向を第一に考えそちらを選ぶようになる。

このケースでは、どちらの選択肢を選んだとしてもきっと相手はうまくいくのだろうという信念が存在しない。
逆にそういった信念が存在するうちでは、相手を自由にさせる。自由にさせることを恐れることはない。
自由にさせることを相手に許すとき、相手が失敗したとしてもそれは重要なことではないと思える。
その後の成功を(安心感が呼び水となって)何となく感じることができるのだ。

支配的な関係が構築されるとき、必ずと言っていいほど不安感、という大きな敵にイニシアチブを持つ一方が
従属することを端緒とする。

相手がうまくいっているという信念は、それ自体を柱とし人生に投影される安心感という感情を土台として
構築されるものだ。
相手の選択を尊重しないとき(できないとき)、必ず自分の内側のどこかにエネルギー的エラーが発生している。

この前自由とは何か、と問うている人を見かけたが、自分の答えは「選択肢が通常の状態よりも多くあり、それを実行でき、責任が取れること」。
自分はこれを自由とする。
責任を取る、とは社会定な意味を持たない。「自分で創造したことだ」と認めること。これが我々に存在する
極地的で極めて形而上学的な責任である。
これ以外にとるべき責任など存在しない。(あなたがないと思えば。)

以上の文脈を加味して、リスペクトは自由と密接にかかわっている。

相手の選択を尊重するという意味でのリスペクトという言葉は、エネルギー的にとても快適である。
つまり動きのすべてにある枷を外した状態である。
支配的な一方ではできないことを、被支配的な一方が為せることは多い。
支配的では機会損失してしまうことでも、リスペクトは適えることができる。
奪っていた一方の力が発揮されることを許すことは、極めて強い善性を宿す。
創造性の拡張を意味しているからだ。
現代人はこのエネルギー的損失をもっと重要なこととして扱わなければならない。


もし未熟な精神を持つとされる一方にリスペクトを示すなら、説明と同意が必要である。
高速道路の上でチョークで落書きする子供の選択を親がリスペクトしなくていい理由は、車にひかれて死ぬという
選択を子供がしていないからだ。
速やかに道路から退避したあと、「車が来て危ないから、安全なところでしましょうね」と説明し同意を得るべきである。
(子供の芸術性が喪失してしまうと危惧することは適切ではない。)


一方が活動的、芸術的、生産的、前向きに選択ができる場合、リスペクトは一方の人間にとってとても善く作用する。
しかし破壊的、自滅的、自傷的な選択しかできない人間をリスペクトしても、両者の間で手に入れるものは少ないことは触れておかなければならない。

裏を返せば、前に進む選択を取れる準備ができている人間の選択を邪魔することはエネルギー構造的に許されない。
なぜならその選択を止める一方が、自分が前に進む選択を殺しているからだ。
カンタダがクモの垂らした糸で上昇するとき、それを羨み足をつかむ亡者とやっていることは性質的に同じである。

一方の選択が前向きであり、しかしその選択がもう一方にとって破壊的であると考えられた場合、
(例えば買おうと思った株の銘柄が危ういともう一方が感じた場合)
それは最終的に相手が決めることだとしたうえで、説明し同意を得るのが誠実である。

この関係性の素晴らしい点は、お互いが持つ視野の狭さを補うことができる点だ。
両者が同じ方向を見て同じ方向へと進んでいる場合、右にも左にも偏ることなく、片方は右を見て、片方が左を見ることで、
仮設的な視野の拡張という最高のパートナーシップを勝ち取ることができる。
成熟した人間性が成し得られることである。

以上の点から、エネルギー構造的視点から見たとき、リスペクトはパートナーシップには欠かせないといえる。


無限の広さを持つ水の中に色どりを広げたとき、水の流れに影響され靄のような動きを取って色どりは動く。
彩りはエネルギーを示し、水は自由の幅を示す。
それはその人らしさを表す、芸術的活動であるといえる。
支配とは、それを小さな水槽の中でやることだ。
前向きなエネルギーを広げられる人間にとって、可能性を殺すことになる。

一方で”無限の広がりを持つ水の中”とは心も指している。
そして水槽とは、心の頚木である。
可能性の殺害とは、心の拘束である。

美しさの喪失である。

その人がその人らしくあるということは、人生を通じての芸術的活動なのだ。
リスペクトのある関係性とは、心の芸術的活動の燃料であり、表現を後押しするものだ。
誰からも支配を受けてはならないし、誰も支配してはいけない。
あなたがもし、自分の美的な世界を信じるのならば。あいての美的な世界を信じるのならば。








自己認識や自己尊厳が夢において、どのようにかかわってくるのか。
補足する。


リスペクトがどのように人の力を引き出すのか、支配がどのように人の力を殺すのかをについて触れた。
この文脈では両者の間におけるエネルギー的構造について話したが、これは自分と自分との間でも起こりうる。
セルフシップと自分が呼称している題材である。
当然良いセルフシップを持つ人間は自分をリスペクトしている。する習慣を持ってる。
そういう人のことを自分軸があるという。
夢を叶える過程において、確立された自分軸は重要である。なぜなら、リスペクトを土台とするからだ。
自分をリスペクトする気持ちが前進する力を引き出してくれる。

大きな枠組みでは自己認識と呼ばれる。
(他者は兎も角)自分は自分をどう見ているのか、という問いは人生を通して常に問われる。
リスペクト、自分軸、そしてそのあとからついてくる自己尊厳。
これらは夢を叶えたときには、(それがポジティブな夢ならば)必ず自分の中に存在している。
尊厳のない(魂的)幸福はあり得ないからだ。(あってもその場しのぎの限定的なものであり、即物的なものになってしまう)

超常的な意味で自己を認めるということは、幸福に通じるすべての道の一歩である。
であれば他者のことも認めなければならない。他者の幸福は自己の幸福とも繋がっているのだから。

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