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メメントモリについての考察

メメントモリとは

メメントモリ(memento mori)はラテン語で自分がいつか死ぬことを忘れるなという意味です。

古代ローマでは…

将軍が凱旋式のパレードを行う際に将軍の後ろに立つ使用人はこの言葉を言うことによって「将軍は今日絶頂にあるが明日はどうなるかわからない」ということを将軍に思い起こさせていたそうです。これはかなり納得いきますよね。油断大敵という四字熟語もありますしいくら今日勝利を得ても、油断すればもうこれで栄光は終わってしまうかもしれないですから。

キリスト教では

しかしキリスト教はこの言葉を上記の意味とは別の意味で使いました。(曲げた)現世の楽しみ、手柄、富なんか虚しのだから来世のために生きなさいという感じです。この考え方は人々の思考力や意志力、生命力を奪い、人々を奴隷にしてきました。

15世紀のヨーロッパでは『死の舞踏』という絵画様式が流行しました。

死の舞踏

この絵画様式が流行した背景にはキリスト教的な「ある日突然訪れる死によって身分や貧富の差もなく無に統合されてしまう」という思想があります。共産主義ですよね?これ。こうなると人々は勉強しなくなります。勉強してもどうせ死ぬんでしょ。働かなくなります。働いて稼いでもどうせ死ぬんでしょ。そして奴隷になります。

wikipedia メメントモリ

死んでも永遠に変わらないものはある

死んでも永遠に変わらないものはあるのではないでしょうか。一時の快楽とは違い。努力と犠牲によって得た勝利は歴史という世界の中に刻まれるでしょう。たとえ敗北したとしてもその努力と犠牲が真実ならば、偽善が崩れた時には必ずそうなるでしょう。

民族の血はどうでしょうか。民族の血にもその民族が歩んだ記憶が刻まれているものです。民族の血はたとえ死んだとしても代々受け継がれていくものです。輝かしい記憶を血の中に残す民族は意志力も高いでしょうし意志力が高ければ優秀な子供が育つでしょう。そしてその民族が奴隷とならぬよう努めるでしょう。この連鎖が代々続くことによって人々を全員奴隷にしようと企んでいる連中の偽善を打ち破り永遠に敗北させることができるのです。


肉体は自然のサイクルの中に組み込まれている

肉体も決して死んだらどこかに行って無になるのではありません。自然に帰るのです。そして新しい生命の糧となります。私たちはこのように死と再生を繰り返しているのです。


いかがでしょうが。自分がいつか死ぬことを忘れないようにすることは重要です。しかしキリスト教徒のように死神の奴隷とならないようにしなければなりません。死んでも永遠に変わらないものはありますからそのために生きればよいのです。むしろ、限りある今をそのために有効に使おうではないでしょうか。決して私たちに生きる意味がないのではないのです。メメントモリという言葉は私たちにいろいろなことを考えさせてくれます。









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