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肩書きと、人間全体として生きるということ

大学を卒業してから1年。大学時代と変わらず、自分がやりたいことを仕事にして取り組んでいるが、ここ1年は自己紹介がとても苦手に感じられた。

今年の抱負を「自己紹介を上手くできるようになること」と言っていたほど。

なぜ苦手なのかと言うと、自分の仕事を簡潔に説明するのに適切な肩書きが見つからなかったからだ。

スラッシュキャリアを実践していて、自分の中ではどの仕事にも同じ軸が通っているけど、「私がやっているのはこういうことです」と総称できる言葉が見つからない。

そんな理由で「アクティヴィスト」と名乗ることもあったけど、アクティヴィズムの側面はもちろんあるものの、プロフェッション(職業)は何なのだろう?とこっそり悶々としていた。

「本職は人間」?

そういえば、学生の頃に付箋を貼りまくるほど読み込んだ岡本太郎の本『自分の運命に楯を突け』で、彼はこんなことを言っていた。

画家とか彫刻家とかひとつの職業に限定されないで、もっと広く人間全体として生きる。それがぼくのつかんだ自由だ。
... いろんなことをやるので、”いったい何が本職ですか”なんて訊かれる。そんなとき、ぼくは”本職は人間だ”って答えてやるんだ。

別の本では、彼は「職業を持つこと自体はノーマルなこと。その中に自分を閉じ込めてしまうことがよくない、面白くないことだ」とも言っていた。(『自分の中に毒を持て』)

つまり、一人間として「働く」という行為を通じて社会に関わるのは自然なことだけど、「職業」という枠に自分を押し込めてしまっては、人間を人間たらしめる他の要素が削ぎ落とされてしまって本質的な生き方ではなくなってしまうということなのかな、と思っている。

自分は大学でもリベラルアーツ教育を受け、社会学という専攻こそ選んだものの、他の分野の勉強や活動にも並行して携わってきた。仕事においても同じ姿勢で、

「ひとつの分野に自分を閉じ込めてしまわず、人間全体として興味のそそられる方向に進み、取り組むべき課題に取り組む」

そんな生き方がしっくり来るけれど、初めて会った人に自己紹介をする時や、久々に会う旧友に「最近何してるの?」と訊かれた時の受け答えにはどうも困ってしまう。

さすがに、「人間やってます」とは言えないから・・・。

自分の中に「振り子」を持つ

そんなモヤモヤにヒントをくれたのが、最近聴いたポッドキャストでTakram代表の田川欣哉氏が話していたことだった。

私たちは、物事を理解するために「AとB」「内と外」「デザイナーとエンジニア」などのように二分法で考えてしまいがちだ。(そもそも「分かる」という言葉は、「分ける・分類する」から来ているらしい)

しかし、本来シームレス(AとBの間にグラデーションが存在する)であるものを二分法で考えることで、そのグラデーションの部分のレプリゼンテーション(表象)が抜け落ちてしまうことに田川氏は違和感を持っているという。

たとえば、田川氏が大学時代にエンジニアとしてインターンをしていた会社のシニアマネージャーに「将来はデザインとエンジニアリングの両方に関わりたい」と言ったら、次のような返答があったそうだ。

どちらか選ばないと中途半端になるんだよね。
その道一筋でやってる人との競争になったら比べ物にならないから、悪いことは言わないからエンジニアになった方がいいよ。

(ちなみに田川氏は、今ではデザインエンジニアとして両方に関わる仕事を実現されている)

どうも日本では(世界では?)まだまだ、「ひとつ選んで、その道を極めなければ一人前じゃない」という、いわばスペシャリスト至上主義が浸透しているようだ。

そういえば先日カフェで隣になった、会社の上司と部下と思しき2人組の席からも「極めずに色んなことに手を出しても意味ないよ」と圧倒的な上から目線で上司が言っているのを聞いたっけ。

私も、金銭的収入が発生する「仕事」と、金銭は発生しないが個人的・社会的に意義がある「仕事」を複数行っているので、「ゆくゆくは1つに絞った方がいい」とか「本業はなんだっけ?」と言われることもしばしば。

境界線がくっきりと引かれていて、どれか1つのカテゴリーを選ばなければいけない。その中間に居てはいけない。そんなカルチャーが、そこにはある。

そして、そのカルチャーの中で2つ以上の要素に携わっていると「自己紹介をする時に何と名乗っていいのか分からない」ことが不安に感じられる。一連の仕事・活動を説明した後に、相手から責められているような感覚を味わうことさえある。

そこで、Takramが組織として大切にしているのが「振り子」という考え方らしい。

このメタファーは、ある個人の1つの「職業/肩書き」がA地点、もう1つの「職業/肩書き」がB地点だったとして、その2つの地点の間を振り子が行き来している状態をイメージしている。仕事に合わせて振り子を振ることで自分の適切な側面を表出し、プロジェクトごとに「肩書き」というラベルを貼り替える感覚だ。

さらに、これは決してA地点とB地点を近づけることを目指していない。むしろ、要素どうしを距離があった方が振り子の振幅が強くなるから。

この考え方は、私を「自己紹介どうしよう問題」から解放してくれそうだ。

そもそも「本当の自分」なんてあるのか?

ポッドキャストの中でも触れられていた「分人(ぶんじん)」という概念がある。小説家の平野啓一郎氏が著書『私とは何か』で提唱しているものだ。

平野氏曰く、

人間というのはもともと分割可能な存在で対人関係ごとに異なった自分があり、どんな人と関係するかの構成比率が変化していく
(記事「人間関係で悩むすべての人に「分人」の考え方を教えたい」

ということらしい。まだ平野氏の著書は読めていないが、社会学者アーヴィング・ゴフマンの「ドラマトゥルギー」(=日々のコミュニケーションは演劇のようで、人はその時々のシチュエーションによって複数の役を使い分けている)の理論を思い出す。

平野氏やゴフマンの主張を聞くに、「自分はこれだ!」と断言できる「True self(本当の自分)」なんてそもそも存在しえないのかもしれない。

肩書きは自分次第

そんな前提を置きつつも、なぜ人は肩書きを持ちたがるのかというと、「自分の仕事を他者に端的に伝えたい」「『分人』・『役』のひとつを表現したい」「アイデンティティを安定させたい」などが理由に挙げられるのではないだろうか。

かくいう自分も、「何やってるの?」と聞かれた時にスマートに答えられる肩書きがほしいと思っていた。

そこで自分が最近名乗り始めたのが「コミュニティコーディネーター」という肩書きだ。

私は大小合わせると結構な数のプロジェクトやチームに携わっていて、分野も食・農・キャリアなどばらつきがある。プロジェクトごとにマイクロレベルで肩書き(役割)はあり、まさに「分人」がたくさんいるのだけど、あえてそれらをまとめて表現するなら上記の肩書きがしっくり来ている。

私の仕事の軸には「人と人、人と自然をつなぐこと」「循環型社会を共にデザインしていけるようなコミュニティを創ること」があり、これを端的に表しているのが「コミュニティコーディネーター」だと思うのだ。

ただ、ずっとこの肩書きに固執していようとも考えていない。私が尊敬する人々の中には、他で聞いたこともないような肩書きを自分で考え出している人や、自分の仕事の変遷やそれに対する理解度の変化によって肩書きを定期的に変えている人だっている。

肩書きってカタくて絶対的なイメージがあったけれど、案外「名乗ったもん勝ち」みたいなところはあるかもしれない。もっとも、そこで大事なのは「自分的にしっくり来るか」「他者に伝わるか」だが。

一番大切にしたいのは、「人間全体として仕事と人生を全うすること」。そのために、少しは言葉に頼ってみるのもいいのかもしれない。

あなたの全人間としての肩書きは、なんですか?

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