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『その女アレックス』に見る物語の中の現代的女性像

 『その女アレックス』はフランス人作家ピエール・ルメートルによる小説である。本作は本国フランスやミステリの本場イギリスで高い評価を得て賞レースを勝ち抜いた後、その実績を引っ提げて日本語に翻訳されるや否や「このミステリーがすごい!2015」海外部門第1位、「週刊文春ミステリーベスト10」海外部門第1位などあらゆる賞を総なめした大ヒット作である。
 本作は物語の構成の妙が非常に評価された。数々のミステリ評論家たちがその舌を巻いた見事な離れ業である。ただそのトリックやミステリとしての独創性について語るのは評論家の方々に任せるとして(あまり文学作品に詳しくないので…)、私はアレックスという女性がどのように描かれたかという点が気になった。というのも作品の根幹は、アレックスという人物がどういうキャラクターだったのかという点にあり、私はこのテーマ設定にある種の社会的要請があるのではないかと感じたからだ。近年は多様性をテーマとして扱うエンターテイメント作品が非常に多く、特に女性にスポットライトを当てた作品も数多く出ている。無理に多様性をねじ込むことであまりうまくいっていない作品もたくさんあるような気がするが、本作は現代社会における女性像の受容について、ルメートルが提示した一つの回答ではないかと感じる。あまりに巧みなので、このような側面を気にすることなく読むことができるが、大ヒットの背景には現代の人権意識を正確に把握し取り入れている感性の鋭さがあるのではないかと感じている。現代フランス文学の巨匠、ピエール・ルメートルの手法をポリティカル・コレクトネスの観点から観察したい。
 以下作者の紹介以降では当然ネタバレをするので、注意されたし(シリーズ全てに触れる可能性あり)。本作はシリーズ作品の第2弾になるので、デビュー作であり第1弾である『悲しみのイレーヌ』から読んだ方が良い。なんならせっかくなので第3弾でありシリーズ最終章となる『傷だらけのカミーユ』も読むこともおすすめする。

ピエール・ルメートルとは

 実際ネタバレに入る前に、作者について触れたい。ピエール・ルメートル(1951〜)はパリ出身のフランス人小説家である。『悲しみのイレーヌ』(原題:Travail soigné)で2006年にフランスでデビュー。いまいち詳しい経歴がわからなかったが、55歳で専業作家となるまで、どうやら図書館司書(だけではないと思うが)に向けた研修を実施する団体を設立し、そこで一般教養や、フランス文学・アメリカ文学の講師をしていたらしい。※1

ピエール・ルメートル(2007)
WIKIMEDIACOMMONSより引用(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pierre_Lemaitre.jpeg)
私が想像していたカミーユ・ヴェルーヴェン警部そっくりである。
(髪の毛がなければ)

 ルメートルはサスペンス・ミステリ小説の分野で高い評価を得ているだけではない。『天国でまた会おう』(原題:Au revoir là-haut)という第一次世界大戦を背景とした小説でフランス文学の最も権威ある賞の一つ、ゴンクール賞も受賞し、なおかつ本作の映画化において脚本にも携わるという八面六臂の活躍を見せている。
 数作品しか読んでいない分際で偉そうに語るのもどうかと思うが、たった数年でフランス文学界を席巻したルメートル作品を形作る特徴は、間違いなくその「ビブリオフィリア(書籍愛好)」的性格だろう。デビュー作は作家性を色濃く写しだすものと言われるが、『悲しみのイレーヌ』を読めばなるほどと言いたくなる。デビュー作のエピグラフは作品の結末を示唆しているのと同時に、鮮烈なデビューを果たす作家の世間に向けた自己紹介のように見える。

作家とは
引用文から引用符を取り除き、
加工する者のことである。
ロラン・バルト

ピエール・ルメートル『悲しみのイレーヌ』橘明美訳、文春文庫、2015、5頁。

 ルメートルは自身の作品を「文学への賞賛の実践」※2と表現しており、実際『悲しみのイレーヌ』は作者の溢れんばかりのミステリ愛に満ちている。既に読んだ方はご存知だろうが、本作の肝はまさに文学作品への言及にあるだろう。ここでこれ以上の言明は避けたほうがよいだろうが、最後に本人の言葉も伝えたい。

文学に敬意を表する。それなくしてこの作品は存在しえなかったのだから。

ルメートル、前掲書、461頁。

 ここまで見ると「文学作品に詳しくないと面白くないんじゃないの?」という疑念が湧いてきてしまうが、そこはご安心を。私のようなミステリの右も左もわからないような輩がいきなり感想を書いてしまうほど面白いのである。
 ただ文学作品としての構造(ある意味ではトリック)を私ごときが語るのは荷が重い。そこで今回はヴェルーヴェン警部3部作(『悲しみのイレーヌ』、『その女アレックス』、『傷だらけのカミーユ』)に登場する「女性」、特にアレックスについて考えたい。このシリーズは各作品ごとで、多分に女性がキーを握っている。エンターテイメント作品の中で描かれる女性は時代を追って明確な変化を遂げているが、現代フランス文学の巨匠は女性をどのように捉えたのだろうか。

※1 fnac(https://www.fnac.com/Pierre-Lemaitre/ia104414/bio)参照。
※2 “exercice d'admiration de la littérature”インタビュー参照(https://www.dailymotion.com/video/x16ypuq)。

アレックスにみる女性像(※ネタバレ注意)

 本作はヴェルーヴェン警部3部作の2作目にあたる。主人公はカミーユ・ヴェルーヴェン、パリ警視庁犯罪捜査部で班長を務めている。第1弾で妊娠中の妻を誘拐された上に殺されるという非常にショッキングな経験をした。シリーズで最初に翻訳されたのが『その女アレックス』だったため、おそらく本作がシリーズ2作目と知らずに読み始めた方も多いと思うが(私もまさにそうだった)、本作序盤でいきなり前作のネタバレをくらう。しかし結末を知っていても全く問題ないほど1作目も面白いので未読の方も是非。ともかく、過去に誘拐事件で身内を殺されたトラウマがある警官が、再び誘拐事件を担当する羽目になるというのが物語の始まりである。当初警察は誘拐された女性を救助するために動くが、女性は自力で脱出に成功する。しかしどうやらこの被害者女性の素性を洗い出すと連続殺人の疑いが出てきた…。といったところが話の大筋である。
 前述した通り、『その女アレックス』ではある女性(当然アレックスのこと)が物語において重要な役割を果たす。というよりアレックスが何者かということがこの作品の中で解き明かされるべきミステリである。
 アレックスは作中で何度か立場を変える。厳密にはアレックス自体は何も変わっていないが、カミーユ・ヴェルーヴェン警部の視点(つまり読者の視点でもある)からの立場が以下のように変わっていくのである。

  1. 監禁され、暴行を受けるか弱い被害者としての女性

  2. 類い稀な容姿で巧みに男を誑かし、恐怖に突き落とすファム・ファタルとしての女性

  3. 性的虐待を受けながら、強い意志で警察をも利用し復讐を果たす自立した強い女性

1.被害者(囚われの姫)としての女性

 本作はアレックスが何者かに捕まり、監禁される。その様子は拷問といってもいいもので、ここで描かれるのは暴力的な男性蹂躙される女性である。そして読者は女性の解放を願いヒーローの登場を待つ。言うなれば『スーパーマリオブラザーズ』の世界観だ。囚われたアレックス=ピーチ姫を助けにくるマリオは当然カミーユである。さながら監禁したトラリユーはクッパといったところか。
 本作ほどの暴力性を女性側に強いなくとも、囚われの女性を助けるヒーローは古典的なイメージであり、古今東西あらゆる物語に見られる類型である。例えばギリシア神話の英雄ペルセウスが海の怪物に生贄にされようとしたアンドロメダを救い出し結婚した逸話は、まさにクッパを倒してピーチ姫を助け出すマリオさながらである。

ピエロ・ディ・コジモ《アンドロメダを救うペルセウス》1513年頃、板にテンペラ、70 x 120 cm、フィレンツェ、ウフィツィ美術館所蔵。Web Gallery of Art(https://www.wga.hu/support/viewer/z.html)より引用。

 『スーパーマリオブラザーズ』や『ゼルダの伝説』でわかるようにこの類型は現代でもかなり人気の高いものである。その理由は結局のところ勧善懲悪的な部分にあるのではないだろうか。道義にもとる行動をする悪者が罰せられることに多くの人は快感を覚えるのである。これらの物語における女性はいささか記号的かもしれない。なぜなら男性の対立が物語の核心にあるからだ。ここでの女性は対決を引き起こす要因であり、勝利によって勝ち取るもの、トロフィーのようなものとして扱われる。(これは批判的目線から見ているから悪い言い方に聞こえるが、別に物語として現代でも扱われても全く問題はないと私は考えている。あくまで一つの類型であり、物語としての良し悪しは類型で評価されるべきではない。)
 『その女アレックス』もまた序盤は読者に同様の類型を想像させる。展開が想像されやすいが、描写がかなりショッキングなこともあり、それでも充分面白いと感じるし引き寄せられる。若干この類型の話とはズレるが、誘拐監禁された人を謎解きしながら救助するドキドキハラハラ感というと映画化もされ途轍もない大ヒットを飛ばした『天使と悪魔』を彷彿とさせる。しかし第一部の終盤からこの女性のアイデンティティの雲行きが怪しくなっていく。読者が誤った推測をするように誘導しているわけだが、この仕掛けは第1部の結論を伏線としている。前回誘拐された妻を助けることができなかった男が、再び女性の誘拐事件に挑みトラウマを払拭するという見事な筋書きをあっけらかんと肩透かしにするのである。

2.加害者(ファム・ファタル)としての女性

 ファム・ファタル(仏:famme fatale)とは元々「運命の女性」という意味だが、転じて男を陥れる魔性の女という意味で用いられる。妲己、クレオパトラ、ユディト、サロメ、デリラなどこれらの女性のエピソードは枚挙にいとまがなく、美術作品でも非常に好んで描かれたテーマである。

カラヴァッジオ《ホロフェルネスの首を切るユディト》1598年頃、カンヴァスに油彩、145 x 195 cm、ローマ、ローマ国立古代美術館所蔵。Web Gallery of Art(https://www.wga.hu/support/viewer/z.html)より引用。

 例えばユディトは旧約聖書に登場する未亡人の女性である。ベトリアというユダヤ人の街を取り囲んだアッシリア軍に対し、ユディトは計略を立てる。わざと着飾って司令官であるホロフェルネスのもとに赴き、彼が寝ている間に首を切り落とすのである。
 サムソンとデリラのエピソードも同じく旧約聖書である。サムソンは怪力無双を誇ったが、その力には秘密があり、妻であるデリラ※3は金に目をくらませ夫の力の秘密を探る。結局サムソンはデリラに「髪の毛を切らないこと」が力の秘密であると漏らしてしまい、寝ている間にデリラに髪を切られサムソンは悲劇的な結末を迎える。

ヘラルト・ファン・ホントホルスト《サムソンとデリラ》1610年頃、カンヴァスに油彩、129 x 94 cm、アメリカ合衆国オハイオ州クリーヴランド、クリーヴランド美術館所蔵。Web Gallery of Art(https://www.wga.hu/support/viewer/z.html)より引用。

 サロメもまた代表的なファム・ファタルである。新約聖書に登場する女性で、魅力的な踊り子であり洗礼者ヨハネ※4の斬首を求めるというショッキングなエピソードで知られている。
 彼女の母ヘロディアはヘロデ・フィリッポスという王族と結婚しサロメをもうけるが、フィリッポスの異母兄弟のヘロデ・アンティパスと恋に落ち再婚。領主であったアンティパスは兄弟の妻を娶るという倫理にもとる行為について洗礼者ヨハネに咎められ、逆上してヨハネを投獄するも彼の人徳やその聖性に恐れをなし処刑まではしていなかった。そんな折ヘロデ王の誕生日の祝宴があり、そこで義理の娘(実の姪でもある)のサロメが見事な舞を披露した。王はサロメに「見事な舞踏の褒美として、なんでも好きなものをあげよう」と提案する。サロメは母のヘロディアに相談し、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」※5と王に答えた。
 エピソードを鑑みると悪女なのは母のヘロディアであるように思えるが※6、皿の上に生首を載せるショッキングな図は美術でも大人気であった。ユディトと非常に似通っているが、皿の上の生首を持つのがサロメ、剣を持つのがユディトである。
 サロメのエピソードの異常性が際立つようになったのはオスカー・ワイルドの戯曲化からである。洗礼者ヨハネに恋をしてしまったサロメが、聖人であるヨハネに肉欲を拒絶された結果、ヨハネを斬首することによって、首だけになった洗礼者ヨハネと口づけを交わすというエキセントリックなストーリーとして確立される。ここまでいくと悪女というかもはや狂気の沙汰であるが、オスカー・ワイルドの戯曲の中では、ヨハネの斬首という目的を達成するために義理の父である王にエロティックな舞踏を披露して惑わせるというファム・ファタル的側面も存分に発揮している。

ルーカス・クラーナハ(父)《サロメ》1530年頃、ポプラの板に油彩、87 x 58 cm、ブダペスト、ブダペスト国立西洋美術館所蔵。Web Gallery of Art(https://www.wga.hu/support/viewer/z.html)より引用。

 上記の女性たちは男性からの欲情の対象であると同時に恐怖の対象である。彼女たちは自らのセクシャルな部分を利用して男性を魅了する。これは実際の女性像というより、男性の願望と恐怖が入り混じった女性像ではないだろうか。女性は薔薇のように美しく、そして棘がある。古来のキリスト教的(あるいはユダヤ的)価値観でよく見られる類型である。
 第二部のアレックスはまさに上記のようなファム・ファタルである。標的の男性ごとに名前、キャラクターを自在に変え男の欲望を手に取るように理解し利用している。
 アレックスはそれぞれの被害者に対して、必ず儀式的行動として硫酸を生きたまま喉に流し込む。繰り返す殺人行為の中で、このような特徴的な行動を残すということは、その行動が加害者の欲求や背景に対して関連があるか、一連の犯罪の加害者は(他の誰でもなく)自分だということを誇示したいかのどちらかだと考えられる。
 硫酸を喉に流し込むという残酷な行為は、少なくとも前者を強く連想させる。液体を飲み込むという意味で性的行為を想起させ、読者はこのように誘導される、この女性はおそらく性的暴行を受けたので、その復讐として男性に恐怖を与えているのだ、と。

これは性的な儀式だ。あの女は———一連の犯行があの女によるものだとすれば———男を憎んでいる。

ピエール・ルメートル『その女アレックス』橘明美訳、文春文庫、2014年、237頁。

 第二部は決定的な転換である。当初完全にか弱い被害者かと思われた女性の正体は、あらゆる男性に対して自らの復讐を果たす恐怖の象徴男性性への挑戦のような存在となるのだ。

「ただわかっているのは、男ならこの女に近づかないほうがいいってことだけだな」

ピエール・ルメートル『その女アレックス』橘明美訳、文春文庫、2014年、238頁。

 第二部は単に男性性への復讐者で終わらず、さらにもう一段階ハンドルを切る必要が生じるところが面白い。アレックスが女性を殺害するのである。その後も迅速に次のターゲットを発見し、殺人行為を加速させる。殺人描写に感情はなく、まるで面倒なデスクワークを済ませるかのごとく淡々とこなしていくその様は、サイコパスである。ここにきて被害者としてのアレックスが、加害者としてのアレックスに完全に転換する。原因がなんであれ、完全に心を壊してイカれた連続殺人犯として確立されるのである。
 このような物語展開はなんとなくホラー映画や、怪談を連想させる。生前散々な扱いを受けた女性が、その恨みをもって死後復讐に転じるような話だ※7。『呪怨』なども同じではないだろうか。伽耶子の恨みの影響を受けるのは家に入ったもの全員である。このような復讐を撒き散らす性質を持つスプラッタミステリへ舵を切ったように読者は誘導される。
 第二部のアレックスは狂気の女性である。殺人に罪悪感を覚えず、硫酸を喉から流し込むという残酷な儀式を必ず繰り返す。おそらく性的暴行のトラウマから端を発した儀式ではあるものの、もはやその対象は女性にまで及んでしまう。復讐ではなく、殺人自体が目的化してしまったように取れる。そして殺人という目的を達成するために、自らのセクシャルな魅力を存分に利用する。
 49章はファム・ファタルとしてのアレックスの集大成である。彼女は裸になって優雅に踊りながら、自らの殺人を回想する。そしてウィスキーの瓶を男性器に見立てて愛撫をする。美しい舞踏とセクシャルな誘惑の描写という点で、ここでのアレックスはまさにサロメである。そしてサロメと同じように彼女の死で第二部は幕を引く。

※3 デリラの名前の由来は「弱くする」を意味するヘブライ語「ダーラル」、もしくはアラビア語での「妖婦」「誘惑する女」という意味からなどの説があるらしい。まさにファム・ファタルである。
Wikipedia「デリラ」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%A9

※4 イエス・キリストに洗礼を施したいわば師のような存在。
※5 『マタイによる福音書』共同訳、第14章8節。
※6 ヘロデ・アンティパス失脚のきっかけもヘロディアが作ったらしい。
Wikipedia「ヘロデ・アンティパス」

※7 累(かさね)と呼ばれる女性の怪談などが挙げられる。

3.強い意思を貫く女性

フェルナン・ペレ《犠牲者 または窒息死した女》1886年、カンヴァスに油彩、68 x 188 cm、サンリス、サンリス芸術・考古学博物館所蔵。Musées de Senlis(https://musees.ville-senlis.fr/Collections/Explorer-les-collections/Rechercher-une-oeuvre/Musee-d-Art-et-d-Archeologie/La-victime-ou-L-asphyxiee)より引用。

 第三部は全てが明らかになる章である。何が彼女を殺人に向かわせたのか。硫酸を流し込むという異常な行為はなぜ行われたのか。彼女は本当に無差別に殺人を犯したのか。彼女は何がしたかったのか。
 すでに十分なほどショッキングな内容のオンパレードだが、第三部の内容は悍ましいと言って差し支えないものである。アレックスは実の兄から性的虐待を受けていた上、兄は他人に売春を強要しており、母親がそれを助長しているという最悪な身の上で、硫酸の手法もアレックス自身が受けた虐待を流用したものであった。それまでの伏線を全て回収し、読者は自殺の前のダンスなどのアレックスの行動全ての意味がようやくわかるのである。結果監禁された部分以外は全てアレックスの綿密な計画であり、自分に危害を加えたもの全てに、死を含む決定的なダメージを与えることに成功したのだった。
 アレックスの正体は単なる被害者でも、自らの魅力を武器として無差別に殺人し続けるセクシャルアイコンとしての加害者でもなく、それらを内包する冷静な復讐者としての女性である。彼女は最悪な少女時代を過ごしながら、単なる悲劇の女性としてただ自らの境遇を憐れんで終わることをよしとしなかった。一人の誇りある自立した女性として、自分の命警察の捜査さえも目的を達成するための道具として見なし、計画を完遂したのである。
 美しくすらあるしたたかさを秘めるアレックスは新時代の女性像ではないだろうか。現代社会において、女性は受動的で守られるだけの存在や、性的な魅力で男性を堕落させる存在ではなく、能動的に自らの運命を決めていく力強さをもつ存在である。

結論

 デ○ズニープリンセスが白○姫やシ○デレラのような受動的な存在から、ベ○やア○エルのような能動的な女性像に次第に変化するように、エンターテイメント作品に求められる女性像は変遷している。その中でルメートルが描き出したアレックスの特性は多面的である。被害者である側面と加害者である側面を併せ持っている。ただ彼女は生きる上で必要以上にさまざまなしがらみで抑圧されてしまった。その抑圧をただ受け止めるだけでなく、能動性を持って自身を規定していった点がアレックスの興味深い点である。これは現代社会で女性が置かれた立場として非常にリアルな描写ではないだろうか。
 アレックスが受けた度を超えた暴力は置いておくとして、現代社会では女性の立場をポジティブなものに持っていこうとしてはいるものの、現実はまだ抑圧を受ける場面も多々存在している。そのしがらみの中で個々人の生き方を確立しようとみんなもがいているのである。ルメートルはアレックスを必要以上にポジティブに描写せず、また必要以上に悪者にもしなかった。ただ現代社会における女性像を色濃く反映しているからこそ、現代人の心を強く惹きつけたのではないだろうか。
 私は本当は男性や女性がどうとかといった目線で、物語について触れたくない。多分私と同じように多くの読者や鑑賞者はポリティカル・コレクトネス的な視点にうんざりしているのではないだろうか。ただ実際は多くの人の価値観に深く根ざしているため、どのようにポリティカル・コレクトネスを扱うかが売上に大きく関わってきているのではないかと思う。アレックス物語の中の現代的女性像に関して、現代フランス文学の巨匠、ピエール・ルメートルからの一つのアンサーである。

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