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新詩集のこと(編集あり)

先日、こちらの記事を公開しましたが、詩集の上梓日が変更になりましたので、編集させて頂きました。
(読みながら、あちこち追加しております(太字)一度読まれた方もまた読んで頂けたら嬉しいです

詩集の刊行は、7月です。

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新詩集を上梓することを決めた。
2年前に上梓するつもりで準備するものの、詩の活動自体を休止したため、無期延期していた。そもそもわたしは「ひつじの箱」で詩集の上梓を終わりにしようとしていたのに、なぜ次の詩集を出そうとしているのか。

諸々理由はありつつも、最終的にはなんとなく「また、やってみたい」なのかもしれない。そもそも詩集をつくるには決して安くないお金がいる。私家版だっていいじゃないか、そこも考えた。
ただ、「ひつじの箱」の上梓後に詩誌に幾つか載せて頂いた詩の中には、まとめておきたいものがあったし、詩の活動をお休みしつつも、詩が降ってくればかいていたので、出来はともかく、詩はたくさんあった。
「まとめてみたい」そのまさに一瞬の瞬発力、それしかない。

今回の詩集は、おそらくこれまでも暗かったわたしの詩がさらに暗さを増している気がする。(あくまでも自分的に)

一昨年、ひかりだった方が突然亡くなった。「人は突然いなくなってしまう」分かっていたことに蓋をして、そう簡単にはいなくならないだろうと思いながら私たちは生きている。次の瞬間、死ぬかも、明日死ぬかも、と考えすぎたらたぶん深く病む。しかし、死ぬのだ。死亡しない人は、いない。死亡率100%ってよく考えたら凄いことだ。

その「ひかり」だった方の突然の死は、わたしに深く重い傷をつけた。
夢を発する言葉を二度と聞くことができない事実。彼があれほど大切にしていたもの、もしかすると思い残したことをそっとわたしに伝えに出てきてくれないか。そう思って、あちこちに目を凝らした。
僅かなコンタクトを望んだ。あれから二年、一度も現れてくれない。もしかすると思い残すことはなかったのかもしれない。または、死んでしまえばそう簡単に現れられない仕様になっているのかもしれない。(わたしは幽霊の存在を前提とするなら、なんらかの非現実的コンタクトはあると信じている。)

わたしだって突然、明日死ぬかもしれない。やや繊細気味なわたしは(おそらく繊細でない人は詩なんてかかない)詩を書き始めた11歳から、死がすぐ隣にあった。いつも
この世界の仕組みのわからなさが、わからないままで生きていることが怖くて、たまらなかった。

この世界のあちこちで見えるものを疑った。わたしが見えているものは、あなたが見ているものとは違う。わたしが正しいと信じていることも。刷り込まれたもの(アンコンシャスバイアス)は簡単に剥がせない。自分でさえ気づかないうちに傷ついているなんてお手上げだ。
縛られ続けてきた「生きる」と「死ぬ」の交差が、絶えず存在を圧迫する。

だったら、詩集を上梓しよう。(突然)今だ。そんなある意味、いきなりやってきた衝動。

今日現在で、詩集におさめる詩の選定と順番は、ほぼ決まっている。冬休みに衝動がやって来たことは幸いだった。そうでなかったら次の日の仕事に影響する勢いで、ガリガリと推敲している。没頭とはこのこと。ただひたすら詩に向かう。楽しい。

そもそも第一詩集の私家版「月を剥く」は、初めて文学フリマに出るためにつくったもの。推敲なし、勢いだけでかいた詩は、荒削りで情報量が多く(このへんが推敲していない難点)疲れるが、この勢いって詩が好き以外の何ものでもなく、今でも嫌いじゃない。(こちら、安価設定もあり、すべて売り切れました)

そして、第二詩集「ひつじの箱」(7年前、えっ?もうそんなに経った?もしかしてその間、寝てた?死んでた?)
これは、投稿欄を卒業するにあたって、詩と思想や、現代詩手帖やユリイカ、その他寄稿など掲載された詩をまとめておきたかった、それ以外の何物でもない。いちいち何月号だっけ?と探すより、詩集にしてしまえばいつでも読み返せる。

ちょっと横にそれるけど、自分の詩集をほぼ読まないって方も結構いるらしい。恥ずかしいからなのか、もう過ぎたものは振り返らないからなのか。ちなみにわたしは結構な頻度で読んでいる。そして、この頃より劣化しているのではないか、と常に自分の過去がライバルだったりする。とてもとても狭い。井の中の蛙、まさに蛙。
しかし、自分の詩への情熱を失ったら書く必要なんてない、と思っている。すこし前にXで流れてきたポストで、勉強や俯瞰は大事だが、根底に「自分の作品が一番」がなければ、次々に発表される素晴らしい作品を前に、発表できなくなるというニュアンスのことが書かれていて、感激した。お前ごときが一番とかいうな、とか諸々突っ込みどころ満載でありつつ、作者に嫌われた作品は無惨だ。書いたのはお前だろ、最後まで責任もって書ききれよ。


わたしの詩作の基本姿勢は、見たことのないものをかきたい、それは自分でも誰でもいい。そして、見たことがない詩(自分的に)を何度も読むのがたまらなく好きだ。
大好きな詩人の杉本真維子さんや文月悠光さんの、特に好きな詩を読むと、胸がつまって泣きそうになる。
自分で書ければ一番だけど、誰かがかいてくれればそれでいい。

詩をかくことが好きだ。空想癖の塊だった子ども時代、授業中よくぼーっと空を見ていて、友達に「またぼーっとしてた」と言われていた。次々に形を変える雲のように、わたしの頭のなかで言葉が走り出す、それを追いかける、それを教科書の端によくかいていたが、まさか「詩」になるとは思っていなかった。だって単なる空想じゃん!

現代詩手帖を知って(11年前)なんだこの難しい言葉たちが並んだ詩は!と驚いた。しかし、猛烈に「かきたい」と思った。書いてみた。なんか違う。その時、ふと、空想癖の言葉を息継ぎなしでかいてみた。なんか似ているかもしれない(大きな勘違い)そこから、この現代詩と呼ばれる詩は、掃いて捨てていた「空想」から拾えるかもしれない、と思った。この難しそうなものを書きたい、書きたい、みんなと違うものを、見たことないものを、それが梁川梨里のスタート。
残業で疲れて駐車場へ向かう道で、ふと書きたくなって、15分くらい立ち止まって、液晶に向かって凄い勢いでタップしたこともある。(怖い)

ひつじの箱のデザインは、CDのデザイン集からデザインを選んだ。めちゃくちゃ可愛いいデザインを表紙にしたため、上梓当時には可愛いすぎるかもと不安を感じた。(今は可愛いい表紙の詩集がたくさんあるが、当時はあまりなかった)(こちら、たくさん在庫あります、お声がけくださると嬉しいです。1500円→1000円です。)

「ひつじの箱」は、一番好きな、一番勢いのある詩をトップ詩にし、さくっと並べて、あっという間に仕上がった感が強い。
感想を頂いた中で、「詩の順番はとても大事だ。勢いがありびっくりした。これを巻頭に置くのはいかがなものか」というとても大事なことを教えてくれた方がいて、今回はそれを教訓にしている。詩の配置と、詩集全体の持つ方向性を一致させるとか、だったらこっちは言葉を変えた方がいいなど、本当なら一冊目から必要だった作業を詩集三冊目にして初めてやっている。
 今回は、さらに様々な編集や感想を頂き、何度もやり直しをしたため(まだ只中。。)上梓日を延期した次第。

先日はPCの故障で三日ほど停滞した。もう、PCお亡くなりになるのは時間の問題だ、買うしかないか。これから詩の活動をしていくのに、PCなしは難しい。しかし、詩集作成にお金もかかるのに。。
このあたりを行ったり来たり。
おかげさまで、いちおPCも直り、
(そのあと、お亡くなりになり、新しいPC買いました)

今日、初印刷してみた。印刷するとそれっぽく見えてしまうところが落とし穴。俯瞰、俯瞰。
まだまだ、まだまだ、時間がかかりそう。詩って、直そうと思えば永遠に直せてしまう。ただ、きれいに直せた!と思ったところで、単なる自己満足にすぎず、実は元の方が全然良いかもしれない。
正解なんてまったく見えない。
ただ、この作業はとても楽しい。さっさと家事を済ませ、早く自分の部屋で推敲したい!推敲したい!の今。

気持ちが定まったら、装幀者に送る予定。5月19日文学フリマ東京の日に上梓予定です。

と書いたものの、実は刊行が7月になります。ただ今、何度もやり直しの最中(さなか、もなかではありません)諸事情にのり、文学フリマでは、予約受付となりますことをご了承ください。
上梓後、イベントなども考えております!

と、要は、上梓日の変更をお知らせしようとして、あちこちを編集で追加してしまいました。
文学フリマ久しぶりです!同人の凪ブースで売り子の予定です。
よろしくお願いします!


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