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元祖”与える男”~「カーネギー自伝」

昔はいわゆる偉人伝のようなものを少年少女はよく読んだものだが、いまはどうなのだろう。
ということで、オトナの読む偉人伝として、今回は最近新版が出たばかりの「カーネギー自伝」を読んでみた。

自伝だから、自分の都合の良いことしか書いていないのは当然なのだが、貧しい移民から一代で巨万の富を得て後年は慈善活動に身を捧げた大富豪の言葉に触れるというのは、何かしらの意義があるといえよう。

カーネギーは少年時代、町工場で働いていたところ、親類の知人から電報配達夫にならないかと誘われた。しかしそれは決して改まった誘いではなく、いわゆるチェスを興じながらの何気ない問いかけであった。

1850年の初期であったが、ある夜、仕事から帰って来ると、市の電信曲の曲調であったデーヴィッド・ブルックスさんが、ホーガン叔父に、電報配達夫になるよい少年を知らないか、と問われたのだ、と告げられた。ブルックスさんと叔父は熱心なチェスの仲間で、チェスをやっていながら、この重大な問が発せられたのであった。このようなごく些細なことに、人間の運命をきめる最も重要なことがかかっているかもしれないのである。(中略)青年たちは、いわゆるつまらぬということによく、神々の最高の贈物があるのを憶えておくべきである。

まだ無名の青年時代で大事なことは何か、特に前半生の記述の中で彼はたびたび言及している。

少年にとって人の注意をひく機会に恵まれたこのような仕事はまたとないといってもよく、聡明なすべての少年にとって前進するためには、このように他人に認めてもらうことが大切なのである。賢明な人たちはいつもかしこい少年たちを探しているのである。
私が成功するためにはどうしても信用がいるのであった。
高い地位にある人に個人的に認められるということは、青年にとって人生の闘争にすでに半分、勝を制したことになるといってよいであろう。少年はみな、自分の仕事の領域を越えて、なにか大きなことをめざすべきである。なにか上司の眼にとまるようなことをやるべきである。

若いうちからすぐに大きな仕事ができるはずもない。でも腐らずに、一つ一つを着実にこなしていくことで周りからの信用を得ていくことが肝要だと、彼は言っているのだ。

また、慈善家としての彼の信念に関わる言葉も多く見られる。

経験だけが、慈悲という最高の徳を教えるのである。軽いが、必要に応じて適切な罰を加える、これが最も効果的なのである。厳罰は必要ではない。少なくとも最初の過ちに対しては、なさけのある処罰がいつも友好的なのである。
貧しい人、困った人にしてあげた些細なこと、親切なことばなどが、思いもよらなかったような大きな酬いをもたらすのであった。思いやりのある行為はけっしてむだになるものではない。
彼ら(労働者たち)は、彼ら独得の偏見をもっていて、それは硬いしこりのようなものであるが、私たちはそれを丁重に扱わなければならないのである。なぜなら、そのよって来るところは無知であって、敵愾心ではないからである。
争議を防止するいちばんよい方法は、従業員の存在を認め、彼らの福祉に深い関心をもち、彼らのためをほんとうに考えているのだということを知らせ、彼らの成功をともに喜ぶことなのである。
受けるよりも与えることのほうが、もっと幸福なのである。

言葉だけを見るとまさに聖人君子かのようであるが、彼は実際に行動したということなのだから恐れ入る。

こういう先人たちの存在が、欧米の寄付の精神として根付かせている遠因なのだろう。

しかし、「慈悲」とか「徳」とか、とんと聞かないなあ。日本のエラい人の口からは。

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