短編小説・せかいをすくう

「君は誰だい?」
 たかしの枕元に誰かが立っていた。それを目だけ動かしてたかしは見る。
「わたしはしらい。漢字はないわ」
「しらいさん?」
「さんはいらないわ。そういう存在じゃないから」
「・・・」
 たかしはあらためてしらいを見る。しらいは、電気の消えた夜の病室の中で、薄いピンク色をまとい、なぜかほの白く光っていた。
「僕に何か用があるの?」
「あなたに世界を救ってほしいの」
「世界を?」
「そうよ」
 しらいはにっこりと微笑んだ。それはやわらかい光のクッションみたいな微笑みだった。
「う~ん」
 しかし、たかしはうなる。
「君の願いを聞いてあげたいけれど、でも、僕は体が動かせないんだ。病気なんだよ。このベッドからどこへも行けないんだ」
「知っているわ。あなたは筋力が徐々に低下していく病気、筋ジストロフィーね」
 しらいは微笑んだまま言う。
「うん、そうなんだ。だから、君の力にはなれないんだ。ごめんよ」
「大丈夫よ。体はいらないの」
「そうなの?」
「うん」
 しらいはにっこりと、純度百パーセントの純真な幼い子どもみたいにうなずく。
「でも、なぜ、僕なんだい?」
「それは分からない。あなただからあなたとしか言いようがないわ。ただ、あなただったのよ」
「分かったよ。ただ僕だったんだね」
「そう」
 そう答えるしらいのそのホイップクリームのようなあまい声は、深夜の病室の静寂の中にやわらかく溶けていく――。
「人類は今危機なの」
 しらいが言った。
「戦争とか、環境破壊とか、地球温暖化とかだね」
 たかしが答える。
「う~ん、そういうのとも繋がっている問題ではあるんだけど、もっと深い、深刻な問題よ」
「もっと深い深刻な問題?」
「そう、それはとても深い深い問題。とても悲しい問題でもあるわ」
「僕は何をしたらいいの?」
 たかしが訊いた。
「怪物を倒してほしいの」
「怪物?」
「正確に言うと、怪物ではないんだけど、分かりやすく言うと怪物なの」
「どんな奴なの?」
「そいつはとても嫌な奴なの」
「嫌な奴?」
「そう、そいつはとっても嫌な奴。恐ろしい奴でもあるわ。そいつは人のやさしさを食べて生きているの」
「やさしさを?」
「そう、そして、ものすごく肥え太っている。もう脂ギトギトにね」
「なんだかすごそうだね」
 たかしはその姿を想像して少し困惑する。
「そう、バクバク、バクバク、満腹中枢の壊れた相撲取りみたいに際限なく人のやさしさを食べ続けているから、ブクブクブクブク際限なく太っていくの。今もよ」
「へぇ~、そんな奴がいたんだね」
「そいつにやさしさを食べられると、みんな自分のことしか考えられなくなるの」
「怖いんだね」
「そう、とっても恐ろしい奴なの」
 とても恐ろしい話をしているはずのしらいだったが、その表情は、終始やさしく微笑んでいた。
「今世界はやさしさを失っている」
 しらいは窓の外に広がる街の夜景を見つめた。
「そうなのか。知らなかったな。僕はずっと病院にいたからね」
「人間は昔、もっとやさしい生き物だったの。とても思いやりがあって、やさしくて、仲間思いだった」
「そうだったの」
「みんな明るくて、よく笑っていたの。お互いを思いやって仲よく暮らしていた。人間は本来そういう生き物なの」
 しらいは、再びたかしを見た。
「でも、今はみんなイライラしているわ。みんな不安の中に落ち込んでいる」
 しらいはとても悲しい顔をした。
「そして、孤独だわ」
 しらいの顔がさらに悲しいものに変わる。
「今、人はみんな孤独なの。とてもとても孤独なの。それは戦争なんかよりも地球温暖化なんかよりも、原発事故なんかよりも、もっと恐ろしいことなの」
「うん、分かるよ。寂しいってとても辛いもの」
「孤独は人間にとって、死よりも恐ろしいことなのよ」
「うん」
「寂しさは人の心を殺してしまう。生きていても死んでしまうの。だから、何とかしないといけないの」
「うん、分かったよ」
「そう、うれしいわ」
 しらいはその顔いっぱいの笑顔で言った。
「ところで、そいつはどこにいるんだい?」
「そいつは深いところにいるの」
「深いところ?地面の底ってこと?」
「違うわ。深いところよ」
「分からないな」
「空間じゃないの」
「僕には難しいことは分からないや」
「行けば分かるわ」
「うん」
「さあ」
 しらいが手を差し伸べる。
「うん」
 たかしはそのしらいの手を取ろうとする。
「う~ん」
 しかし、たかしは腕を上げることすらができない。
「やっぱり、ダメみたいだ」
 たかしが言った。
「あなたはただ、あなただけを動かせばいいの」
 そんなたかしを見て、しらいが言った。
「そうか、僕だけを動かすのか。やってみるよ」
 たかしはたかしだけを動かしてみた。
「そう、それでいいの」
 しらいが言った。動かないはずのたかしの手が、しかし、確かにたかしの手はしらいの手を握っていた。
「さっ、行きましょ」
「うん」
 たかしの手がしらいの手をしっかりと握ると同時に、二人は、飛び立った。
 しらいはたかしの手をとり、ピーターパンみたいに夜空へと飛んでいく。その下には、光り輝く広大な街の夜景群が広がっていた。
「深いところじゃないの?」
 たかしがしらいを見る。
「そうよ」
 しかし、二人はぐんぐん夜空へと上って行く。もう夜空を突き抜けて宇宙に出てしまいそうなくらい高く高く上っていく――。たかしはしらいを信じ、その身を完全に任せる。
「あれ?」
 そんなたかしが、首をかしげた。夜空へと上って行けば行くほど、不思議と落ちて行く感覚があった。
「なんだか不思議だ。上に上っているのに下に潜っている感じがする」
「常識をイメージしないで」
 しらいが言った。
「うん」
 二人は広大な空間を上りながら落ちていく。縦と横と奥行とその三次元の空間の中にもう一つの何かがあった。そこには、右も左もなかった。上も下も、前も後ろもなかった。――深さはそこに繋がっていた。
「・・・」
 上っているのか落ちているのか、どこへ向かっているのか、ただ、その深いところへ向かっているのだけは分かった。

 ―――

 二人は飛び続けていた。とても長い時間が経っていた。広大な悠久の時間。でも、それは同時に一瞬だった。時間もそこでは本来の流れを失いオリジナルの動きをするらしい。らせんを描きながら、そして、それが全体として円を描き、未来と過去が行きつ戻りつしながら、結局今に戻る。それを繰り返していた。そこは永遠であり、今という瞬間だった。
 そして、その時間のらせんの円の果ての今という瞬間という点にすべてが集約されていく――。二人はそこへと導かれるように入って行く。
 そこは、深いところ――。
 そこは確かに深いところだった。
「あっ」
 たかしが何かを見つけ声を上げる。
 確かに深いところに何かがいた。それはとても大きかった。とてつもなく大きかった。そいつはもごもご、もごもご、そこで蠢くようにして存在していた。
「やさしさを食べ過ぎて肥え太って動けなくなっているのよ。人間でいえば、脂肪にまみれにまみれて、太りに太って五百キロは超えてるって感じ」
「五百キロの人間かすごいね」
 たかしはあらためてその存在を見る。
「でも、あれはいったい何?」
 そいつはしかし、なんだか姿がはっきりしなかった。
「あれはシステム。実体はないの」
「どうとらえたらいいの」
 実体のない存在は、概念として認識することが出来なかった。
「なんでもいいのよ。それはあなたがイメージして」
「なんでもいいの?」
「ええ、なんでもいいわ」
「う~ん」
 たかしは目をつぶりイメージした。すると、システムは形を現し、その姿を浮かび上がらせた。
「あれは何?」
 しらいがたかしに訊いた。そこには丸く膨らんだもにょもにょとした物体があった。
「ナメクジだよ。たっぷりと水を吸い込んだナメクジ。僕がまだ体が普通に動いていた五歳だった頃に、雨の日に家の前で見たんだ。たっぷり雨水を吸い込んで、巨大な水まんじゅうみたいにまん丸くでっぷりと膨らんでいる奴がいたんだ。奴を見ていると、なんかそんなイメージと重なったんだ」
「あいつにピッタリね」
「うん」
 二人は、そして、巨大なナメクジに近づいて行った。
「でも、いったい、どうしたらいいんだい。あんな巨大なもの。どうしていいのかも分からないよ」
 たかしが途方に暮れたように言う。そいつは気が遠くなるような広大な遥か彼方を見通すような大きさだった。
「あなたはもう持っているはずよ」
「えっ」
「あなたはもうすでに持っているはず。あいつを倒す武器を」
「あっ」
 たかしはいつの間にか剣を握っていた。それは怪物を倒すには理想的な剣だった。
「これかい?」
「うん」
「でも、どうしたら」
「それも知っているはずよ」
「うん」
 たかしは知っていた。
「これは鍵だね」 
 たかしが持っている剣を掲げる。
「そう、システムっていうのはどんなに巨大で複雑なものでも、ちょっとした不確定要素一つで壊れていくものよ」
「不確定要素?」
「システムは予定調和だから予想できないものに弱いのよ。システムはマジメなの」
「へぇ~、そうなんだね」
「さあ、行きましょう」
「うん」
 二人は剣に導かれていくように、巨大なナメクジの体に突っ込んでいった。
 ぶわんっ
 ナメクジの分厚い寒天みたいな皮膚を突き破り、二人はその体内に突きいって行く。
「うううっ」
 しかし、たかしは肥え太ったシステムの中で溺れた。体内は、どろどろとした質量の濃いゼリーのような世界だった。何とも気持ち悪く、動きづらくて息苦しい。
「頭がおかしくなりそうだよ」
 たかしが嘆く。
「これがシステムよ。これが現代の人間が生きている世界なのよ」
「こんな中で生きるなんて僕にはとても出来そうもないよ。息すらがうまくできないもの」
 たかしは息苦しそうに言った。
「とても、システムの中心なんて行けそうもないよ」
 たかしはさらに弱音を吐く。
「大丈夫よ」
「えっ」
「ここには距離はないの。重さもね」
「そうか」
 すると急にたかしのすべてが軽くなった。
 二人はスイスイと、システムの海の中を泳いで行った。
「・・・」
 たかしはシステムの中を泳ぎながら、まるで何十年も旅をしているような気がした。ついさっき、ナメクジの中に入ったばかりなのに。
「今私たちは、システムの歴史を進んでいるのよ」
 しらいが言った。
「そうなのか・・」
 これもシステムの歴史なのか・・。たかしの中に切ないようななんだか悲しい感情が溢れるように沁み込んできた。
「なんだか悲しい・・」
 たかしが呟く。
「とても切なくて、寂しい感じがする・・」
「そうね。システムそのものが孤独なのね」
「うん」
 たかしはこの化け物に同情した。

「もうなんだか永遠に辿り着かない気がしてきたよ」
 ナメクジは果てしなく大きかった。たかしはもう、どれだけ泳いだかも分からなくなってきた。
「あなたはもう辿り着いているわ」
 するとしらいが言った。
「えっ」
「ここには時間はないの」
「あっ、あれがシステムの要だね」
 たかしの目の前にさっきまでまったく見えていなかった丸いふわふわとしたものが見えた。
「そうよ。あれがシステムの要」
「でも、どこに鍵穴があるんだい?」
 それはあまりにもふわふわとした茫漠だった。
「あなたには見えるはずよ」
「えっ、うん・・」
 たかしは目を凝らす。しかし、それはまったく見えない。
「目で見るんじゃないの。あなたが見るのよ」
「うん・・、あっ」
 システムの要の中心にその核が見えた。
「見えたよ」
 たかしがしらいを見ると、しらいがゆっくりとうなずく。
「でも・・」
 たかしは躊躇する。
「どうしたの?」
「自信がないよ。外したらどうしよう」
 たかしが不安な表情をすると、しらいはにっこりと笑った。
「ここは、上も下もないのよ。右も左も。前も後ろだってない」
「そうか」
「そう」
 たかしは剣をかざし、システムの要をしっかりと見つめ、突っ込んでいく。そして、システムの要の核に剣を刺し込んだ。
「やった」
 たかしは叫んだ。確かな手ごたえがあった。
「・・・」
 しかし、何も変化はない。
「やったの?」
 たかしが、不安そうにしらいを振り返る。
「やったのよ」
 しかし、しらいは笑顔で答えた。
「何にも変化はないけど・・」
「システムの変化は目には見えないの」
「そうなんだ」
「でも、システムは壊れたわ」
「うん、そういえばなんだか息がしやすい感じがする」
「そう、システムのしがらみがほどけたのよ」
「そうか」
「さあ、帰りましょ」
「うん」
 そして、たかしは再び、ベッドに横たわっていた。不思議なことに時間は一秒たりともまったく経っていなかった。旅立った時のそのままにそこにいた。
「帰って来たんだ」
「そうよ」
 ベッド脇にしらいがいた。 やはり、薄いピンク色をまとい、ほの白く光っていた
「なんだか楽しかったなぁ」
 たかしが言った。大変な旅だったけど、たかしはとてもたくさんのいろんな経験をした。
「そうねいい旅だったわ」
 しらいが微笑む。
 世界は何も変わっていないみたいに静かだった。そんな静寂が二人の背後で流れていく。しかし、それは平和で温かな静寂だった。
「ゆっくり休むといいわ。あなたは世界を救ったんですもの」
 しらいが言った。
「うん」
 実感はなかったが、たかしの中に不思議な充実感があった。
「僕はもうすぐ死ぬんだね」
 たかしが言った
「そうよ。でも、あなたは世界を救ったのよ」
 しらいがやさしく言う。
「うん」
 たかしはとても満たされた高揚感と幸福感に包まれていた。
「なんだか眠いや」
「眠るといいわ。あなたは重大な役目を終えたんですもの」
「うん」
 たかしは体の力を抜いていく。
「あなたはとっても立派なことをしたのよ」
 しらいが言った。
「うん」
「これでみんな幸せになるわ」
「うん、僕もうれしいよ」
 たかしは小さく微笑むと、最後にそう言って、ゆっくりと目をつむっていった。

                         
                          おしまい


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