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小泉八雲『鏡の少女』-”少女”は一体何者なのか?

小泉八雲『鏡の少女』について考察してみました。
まずは、物語の概要から。
1.松村兵庫という神官が神社を建て直すべく、資金集めのため京都に来た。
2.宿泊先の井戸に、美しい少女の妖怪がいて、危うく井戸に落ちそうになった。
3.危険なので、井戸に囲いを作り、誰も近寄れないようにした。
4.少女が松村に会いに来て「井戸の底からわたしを救い出して欲しい」と頼んだ。
5.松村が井戸の底をさらったところ、古い鏡が出てきた。
6.少女は鏡の精霊で、自分の生い立ちを語り、鏡を将軍、足利義政に献上してほしいと依頼。成功の暁には、良いことがあると言った。
7.松村は将軍に謁見が叶い、鏡を献上。神社再建の資金を得た。
8.後に、鏡は大内家所有となったが、大内義隆戦死の後、行方知れずとなった

物語の成り立ちについて注意したいのは、『鏡の少女』は、『当日奇観』という江戸時代の書物に収録されている『松村兵庫古井の妖鏡』から小泉八雲が手を加えたもの、ということです。
それは小泉八雲の蔵書に『当日奇観』があることからわかります。

さて、項目1~3の間には旱魃があったり、問題の井戸で死ぬ人があったりといろいろあるのですが、少女の正体とは無関係なので省略します。

まずは項目4から。
松村の前に少女は現れ、”弥生”と名乗り、こう頼みます。
今まで井戸に棲む”毒龍”に囚われていたが、神の命令により、毒龍が信濃の国へ追い出されたので、井戸の底からわたしを救い出して欲しい。
人を殺した理由は、毒龍が人の血を飲むため、弥生が男を誘って井戸にドボン…… 弥生さん曰く「わたしは人を殺す気持ちなんて無いのに、毒龍が、毒龍がやれって!」という感じです。

現代の感覚では弥生さんも共犯なので同情できないのですが、松村は井戸で弥生さんに会い、その可愛さに一瞬クラッときた一人なので、項目5では弥生さんの願いどおり、井戸の底をさらってみます。
すると、一面の鏡が見つかりました。

鏡の裏には、おそらくは作られた日であろう、”三月三日”と彫られているので、「ああ、だから弥生(三月)なのか。すると、弥生は鏡の精霊なのだな」と、一人納得します。
この部分、弥生さんの正体について重要な情報なので、留意してください。

さて、松村は鏡を磨き、綺麗にして箱に収めると、また弥生さんが現れます。
ここからが核論の項目6です。
弥生さんは、「わたしは斉明天皇のとき、百済から日本にやってきました」
と、いいます。
斉明天皇は皇極天皇の重祚で女性の天皇です。在位は655年~661年。物語は足利義政の時代ですから1449年~1473年の設定です。弥生さんは約800年前に日本に来たのですね。

その時期、日本と百済に大事件がありました。新羅、唐との戦に破れ、百済が滅亡したのです(西暦660年)。そして、百済の王族、貴族は大挙日本に移住しました。斉明天皇は九州の筑紫(福岡県)に仮の宮殿を設営して指揮をとっていたため、受け入れ判断も斉明天皇が行ったことでしょう。

弥生さんはこのとき、筑紫に撤退して来たと思われます。
そうでなければ、弥生さんの出身を「百済」にし、来日時期をわざわざ「斉明天皇のとき」に設定した意味がありません。

弥生さんの自己紹介は続きます。
「嵯峨天皇のときに、わたしは賀茂の内親王に与えられました。その後、藤原家の家宝となったものの、保元の乱で誤って井戸に落とされました」
弥生さんは日本に来て大事にされましたが、保元の乱で運命が狂います。

ここで問題なのは、”藤原家の家宝になった”という部分です。
小泉八雲が元ネタとした『当日奇観』にはもう少し詳細に書かれています。
「嵯峨天皇のとき、皇女である賀茂内親王に賜り、その後、兼明親王を経て御堂殿(藤原道長)が秘蔵。しかし、保元の乱で誤って井戸に落ちた……」
藤原道長は藤氏長者(藤原氏の筆頭格)なので、弥生さんは次世代の藤氏長者に代々”家宝”として受け継がれたと思われます。
そして、保元の乱発生時点での藤氏長者でかつ、道長の直系子孫は、藤原忠実。保元の乱で源義朝(源頼朝の父)が忠実の邸宅に突入し、財産を没収しています。つまり、弥生さんは負けた側の貴族の所有でした。

弥生さん本人は「誤って井戸に落ちた」と言ってますが、変です。家宝の鏡を誤って井戸に落とすシチュエーションってどんな状況なのでしょうか?
源義朝は藤原忠実の財産没収目的で邸宅に突入しているのですから、どう考えても、”むざむざ敵に家宝を渡さないために、井戸に捨てた”と考えられます。
しかし、百済の上級国民?の弥生さんのプライドは、そのような表現を許しません。
「間違って井戸に落とされたんだから! 捨てられてないし!」ということでしょう。

さて、『鏡の少女』での弥生さんの自己紹介はここまでなのですが、『当日奇観』ではまだ続きます。
「十二律にかたどりて鋳られた内、わたしは三月三日に作られた」
小泉八雲は、この部分を書いておらず、そのかわり、”三月三日”という文字が鏡に彫られていた、という記述を松村のモノローグとして書いています。
しかし、『当日奇観』によると、鏡に彫られていた文字は”姑洗之鏡”という四文字です。
これは、弥生さんの正体を知る上で非常に重要です。

”姑洗”とは、古来、中国や朝鮮で使われた音階の一つです。
そして、”十二律”とは、音階が十二あった、という意味。音階の名称は異なりますが、日本にもありました。
ちなみに、姑洗は西洋のE、つまりドレミの”ミ”となります。また、十二律は月の異称にも使われ、姑洗は三月にあたります。

それらを念頭に弥生さんのセリフ「十二律にかたどりて鋳られた内、わたしは三月三日に作られた」を考えると、こうなります。
『鏡は十二律の音階に対応して十二面(十二の精霊)があり、わたしはそのうちの一面で、三月三日に作られた』

弥生さん以外の十一面の話は出てきません。弥生さんのセリフでも触れていません。おそらく、百済滅亡時の撤退の際に失われたものと思われます。

それにしても…… なぜ、イキナリ音楽の話になるのでしょうか?
『怪談』など小泉八雲の著作は主に、”西洋人に、日本の文化を紹介する”ことを目的に書かれているため、音楽関係の記述はわかりにくくなるので、小泉八雲は『当日奇観』のこの部分をバッサリとカットして『鏡の少女』を書いています。物語として理解しやすくなる一方、弥生さんの正体は”鏡の精霊”と、少々幼稚になり、物語の深みは感じられません。

さて、新たな問題、音楽です。
前述の通り、弥生さんは、百済滅亡のとき日本にやってきました。
百済の貴族、王族、職人など、日本にとって重要人物であるのは確かです。
しかし、弥生さんの立ち振る舞い、話の内容からどうも、王族、貴族っぽくない。
すると職人など、何かのスペシャリストではなかったでしょうか?
そして、唐突に音楽の話をする。
つまり、演奏家。その中でも、百済での宮廷音楽の演奏家だったのではないでしょうか?
だから、音階に対応した鏡を持っていた。鏡の数は十二律に対応しているので十二人で合奏していたと考えられます。そういえば以前、女子十二楽坊ってありましたよね。中国で縁起が良いとされている数字”十二”に合わせたとのことです。

話を戻します。鏡は演奏時に首から提げていた、もしくは当時照明など無いはずなので、天候不良で暗い場合など、自然光を反射させてステージを照らしていた、などの使用方法だったのかなぁ?と思います。

日本としても、宮廷の儀式に関する情報は欲しい。だから撤退時に弥生さんを連れて行ったものと考えられます。しかし、海路の撤退戦、生き残ったのは、弥生さんだけだった……。
弥生さんの、精霊にしては妙にたくましい生き様を考えると、かいくぐってきたものが違うのも納得できます。

さて、物語はエンディングを迎えます。
弥生さんは再度松村に依頼します。内容は、「将軍、足利義政にわたしを献上して欲しい。なぜなら、昔の持ち主の血を引いているからです」
地方の神官にすぎない松村にはハードルが高い願いなのですが、管領細川家の取り次ぎで謁見することができました。そして骨董集めが好きだった義政は喜んで鏡を貰い、松村は念願の神社再建の資金を得ることが出来ました。

でも、変です。足利氏の出自は清和源氏なのですが、弥生さんの自己紹介では、百済→日本の皇族→藤原氏→井戸の中の毒龍……という遍歴でした。関連する清和源氏の人物は、保元の乱で藤原忠実邸に突入した源義朝ぐらいで、弥生さんが井戸に落ちる遠因を作っており、清和源氏はとても”持ち主”とは言えないと思います。
小泉八雲はこの矛盾を説明していません。

そこで、『当日奇観』を確認してみると、「昔の持ち主の血を引いている云々」のセリフは無く、弥生さんは自己紹介が終わるとすぐ、「将軍家にわたしを献上して」と要求します。この部分なのですが、読むとちょっと唐突感があることから、小泉八雲は「血を引いている云々」という、もっともらしい理由を追加したと、当初思っていました。しかし、そのセリフにかかるべき、清和源氏の持ち主の記述が無いので、文章上の係り受けの関係が不明で意味が通りません。
その部分は小泉八雲、もしくは節子さんのミスだと考えていたのです。

『当日奇観』 わたしを将軍家に勧めて云々部分(8行目)

いずれにせよ、これで松村は神社再建でき、弥生さんは井戸から出て将軍義政のいる銀閣寺で悠々自適の生活……と、思いきや。

小泉八雲の『鏡の少女』はここで終了なのですが、『当日奇観』では弥生さんの”その後”が一行、語られます。
項目8、鏡は大内家所有となったが、大内義隆戦死の後、行方知れずとなった。です。
大内義隆は家臣の陶晴賢の謀反で一族もろとも自害していますが、弥生さんの所有権が陶晴賢に移行したとは書いていません。”行方知れず”です。

弥生さんは、不幸な最期だったのでしょうか?
そうは思えないのです。弥生さんの「義政に献上」セリフを読むと、大内氏の元に行くことこそが、弥生さんの目的だったのでは?とさえ、考えています。

大内家の出自は、多々良氏。多々良氏はなんと、百済王族の聖明王から出ているのです。


また、大内義隆の後を継いだのは大内義長ですが、義長は義隆の養子であり、”百済王族”の血筋ではありません。もちろん、陶晴賢の血筋も違います。
弥生さんが大内義隆の死後、義長や陶晴賢の所有にならず、”行方知れず”になった理由はこれで明らかになりました。


すると、一見、意味不明だった小泉八雲(もしくは節子さん)が追加した弥生さんのセリフ「昔の持ち主の血を引いている」が、なんというか、不気味に響いてきます。


これ、小泉八雲は意識的に書いているのでしょうね。
なぜなら、小泉八雲は、元ネタの『当日奇観』から百済王朝の血筋である大内家のことを全文カットしているにも関わらず、元々無かった弥生さんのセリフ「昔の持ち主の血筋」を敢えて追加するという、故意に矛盾を作り出して物語を終えています。そして、その”血筋”は、足利将軍家が祖とする清和源氏でないことも明らかにしています。
まるで、読者へ謎解きの課題を与えているようです。

課題だとして、僕なりの回答です。
つまり、弥生さんが真に言いたかったことは、
『わたしが足利義政に献上され、将軍家の所有になることにより、いずれ、結果的にわたしの本来の持ち主、百済王の血を引いている、大内家に渡る』
ではないでしょうか?
少女というより、百戦錬磨のオンナです。

弥生さんの正体とその目的をまとめます。
・弥生さんは、鏡の精霊になる前、百済の宮廷官女で、宮廷音楽の演奏者だった。
・十二律に対応して鏡が十二面、演奏者も十二名いたが、生き残ったのは弥生さんのみ。
・百済滅亡時、弥生さんは日本に亡命、移住した。
・鏡の精霊となり、持ち主を転々とする中でも、百済王の血筋を引く人物の所有に戻りたかった。
・足利将軍家から百済王の血を引く大名、大内家に下賜される可能性を見いだして、たまたま居合わせた松村兵庫を利用した。

※※※

『当日奇観』に文面には、わかる人にだけわかればいい、というような作者の”書きたいことだけ書きました”という清々しさを感じます。
それに比べ、小泉八雲の『鏡の少女』は、日本のことをまったく知らない西洋人にも理解できるよう、簡単、簡潔に書かねばならない”不自由さ”を感じるのです。
『当日奇観』と『鏡の少女』を読み比べ、取捨選択されたエピソードを読むと、小泉八雲の苦悩が見えてきます。それは、論理だけでは割り切れないものです。「大内家のことカットするなら、清和源氏と弥生さんの絡みを記述すべきだろう」、もしくは「”元来の持ち主”という一文を入れるなら、大内家のことをカットすべきではない」など頭をチラリとだけかすめたこともありますが、”西洋人にも理解できるよう”という、小泉八雲の執筆上の縛りを考えると、『鏡の少女』が精一杯なのだろうなぁ、とも思えてきます。
弥生さんの言う血筋云々の話は「読者がわからなくてもいいから、弥生の真意だけは書いておきたい」という葛藤、苦悩の結果発生した矛盾だったのかもしれません。
これは『怪談』に収録されている『雪女』でも同じように思いました。

わが身を振り返ると、発売されている小説、特に短編の文章量は本来、1.5倍ほどあります。それを話が広がらないように、エピソードを最小限にして、難しい言葉は使わず、カットに継ぐカットでやっと発売にこぎつけることができます。
それにくらべブログは書きたいことが書けてホント、ストレス発散になりますね。

カットに継ぐカットの中で、矛盾があってもこのセリフは書いておきたいというものが、必ず、あります。
ちょうど、『鏡の少女』の弥生さんのセリフのように。

その一行を書くことにより、『鏡の少女』というタイトルから連想される子供向けとも思えるファンタジーの中に、壮大、苛烈、残酷な歴史の中でもがくオンナの生き様という、リアルな側面を併せ持つ傑作が生まれるのだな、と感じられてなりません。

いや、でも、それにしても、『鏡の少女』はわかりにくいですけどね……
実は小泉八雲のただのミスだったりして。

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