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権威づけという言葉による妙な誤解

久しぶりにバーボン・ウィスキーをショットグラスに半分だけ注いで飲んだ。このところお酒を一切口にしなかったので、一口飲んだだけで頭がぼーっとする。ショットグラス半分で正解だったのかもしれない。我が家では夕飯の時に缶ビールを一本でも飲まないと「体調悪いんか?」と心配される。最近、考え事が多くあったのでお酒を飲む気にならなかったのだが、いよいよ家族みんなが本格的に僕の体調を気にするようになったので、ここで少しだけ飲んでみせて安心してもらおうと思う。まったくどうかしている。

そう、それでバーボンを一口飲んで、柿の種をかじりながら小説、カズオイシグロの『浮世の画家』を読んでいた。だが正直、はじめはこれを読む気にならなかった。積ん読を消化しているうちにこの小説を読む番が回ってきてしまって、仕方なく手に取ったのが話の始まり。
いつだったか『日の名残り』と『遠い山なみの光』の2作を読んで、なんか好きだなぁと思って『浮世の画家』を買った。それから全く読まずに二年近く経過してしまった。そういうことはたまにあって、気がついたときにはちゃんと読むことにしているのだが、カズオイシグロに限ってはなかなか読む気にならなかった。

昨年、彼がノーベル文学賞を受賞してしまったからだ。

まず、僕が彼の小説を読むことになったきっかけは、彼が長崎生まれであることを知ったことにある。決してノーベル賞作家に興味があるわけではないし、そもそも彼の受賞が決定する前に本を購入している。僕は自分が長崎に住んでから、長崎出身の著名人の情報を集めるようになった。その中にカズオイシグロもあって、いずれ彼の小説も読むつもりでいた。結局小説家としては、村上龍や吉田修一、さだまさしの後になってしまったが。
だが、いま公の場でカズオイシグロの本を手に取ると、はたから見ればどう考えても僕がノーベル賞受賞をきっかけに彼の存在を知ったミーハーな読者だと思われる、そう思うと外に持って出て堂々と読む気になれない。だから家でこっそりと読んでいるのだが、それでもノーベル賞作家という肩書きが、この「カズオイシグロ」という文字から臭ってきて気が散る。「好きな作家は?」と聞かれて、「カズオイシグロ」と素直に答えにくくなるこの感じ。そんなこと気にしたって仕方ないし、ほとんど無意味な妄想であることはわかっているのだが、わずかでも他人から誤解される可能性があると、それをいちいち気にしてしまう性分なのだ(不要な言い訳をしているようだ)。
権威づけされることで見失いそうになる本質的な価値。だが本当に誤解しているのは実は僕の方であることにはたと気づいた。

芥川賞や直木賞を受賞した作家に対してはそんな曲がった感情は起こり得ない。むしろ、彼らが受賞した作品は読めるものならばすぐに読みたい。
では、ノーベル文学賞受賞者と芥川賞・直木賞受賞者に対するこの印象の違いは何だろうか。ノーベル文学賞は文豪が取るもので、芥川・直木賞は新人作家が取るもの。なんとなくだが、これが両受賞者の印象の違いを決する要因ではないかと思う。

新人作家が登場すると、「おっ、どれどれ」という気分で本を手に取り、彼らの作品の良い点、悪い点などを自ら読み進める上で発掘していく。その行為が、読者の作品に対する好奇心や作家に対する愛着、あるいはある意味で読書家としてのプライドのようなものを高めていく。読者は作家の伴走者や保護者のような振る舞いをするようになる。そうして「自分だけのお気に入りの作家」という意識を形作っていく。周囲の人がまだ知らない、その作家の魅力、その作品の魅力に気づいた体験は自分だけのもの。作家やその作品に対する自分なりの想いにちょっとした優越感、特別感、秘密感を感じる。それはインディーズバンドのファンのように、作家との間にどこか親しみすら感じる。挑戦者として切磋琢磨している姿にシンパシーを感じる。もちろん、文豪にも文豪なりの挑戦があるのだが、それよりも人は未熟な挑戦者を見たがる。出来上がっていない姿が人を惹きつける。そして一緒に成長していくこともエンターテイメントの一つの在り方だ。

だが、ノーベル賞受賞に限らず、ミュージシャンのメジャーデビュー、アスリートのCM出演、世界遺産登録など、なにかしら権威づけのようなものがなされると、あるいはそういう印象を受けると、一部のファンは一線から退いていく。なんだか出来上がっちゃった感じ。もう自分の手の届かないところに行ってしまった感じ。その価値が広く認められることで、もう自分の応援が必要ではなくなってしまった気がする一抹の寂しさ。ノーベル文学賞受賞者に対しては、あえて彼の作品の価値を探る必要性は感じない。すでにそれは公で明らかにされてしまった。

突出した才能はあってもそれはどこか普遍性を伴っていて、特別でありながら際立たない。偉大な彼の前では人々は凡庸になる。人は好みを言う時、あえて凡庸なものや無名のもの、他の誰とも違うものなどを取り上げたほうが自分の異才さが際立つことを知っている。だから、前はカズオイシグロが好きだと言うと、「ほお〜、通な人もいるもんだね」と、ちょっと人の注意が引けて自分を際立たせることができたのに、メディアで大々的に取り上げられ、小説を読まない人までもが彼の存在を知ってしまった現在となっては、カズオイシグロが好きだと言っても、「ああノーベル賞作家だもんね」となってしまう。それを気にする人はもうカズオイシグロファンを公言しないだろう。偉人の後に続くのはコアなファンと、にわかファンだけとなった。

カズオイシグロは未だ挑戦する作家だ。おそらく、ノーベル賞受賞によって権威づけされ、彼の魅力が彼自身だけによるものではなくなってしまったことが、彼の価値を見えにくくしてしまっていると思った。だが、それはまやかしに過ぎず、本質的な価値は変わらずそこに存在する。ノーベル賞とは全く違うところに。それはただ見えにくいだけなのだ。ノーベル賞受賞は名誉なことであり、決して事物の価値を汚す存在ではない。ミーハーだとかいうのは、ただそれに気を取られてしまった者の誤解だ。
そういう意味で、僕は本来存在しないはずのヴェールで自らの目を覆い、彼の素晴らしさを見失ってしまった二流の、いや、それ以下の読者なのだ。ノーベル賞に罪はないし、カズオイシグロだって何も悪くない。彼はのぼせて出来上がっちゃった作家ではない。今のところは。

権威づけという言い方は、誤解を招きやすい。彼の作家としての才能はノーベル賞によってある種裏付けられるかもしれないが、ノーベル賞作家だから彼は作家として才能がある、というとまた意味が違ってくる。僕はそこを見誤っていた。

「素晴らしいから世界遺産である」ことと、「世界遺産であるから素晴らしい」ことの違いを議論した日々を思い出した。

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