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書評/『異常【アノマリー】』(仏ゴンクール賞受賞/エルヴェ・ル・テリエ著・加藤かおり訳):この世界が仮想現実でないと言えるのか?哲学もSFも織り込んだ深遠なエンタメ小説(歯ごたえ半端ない仏文学)

 パリ発ニューヨーク行きのボーイング787が超弩級の乱気流を抜けた時、それまで信じられていた人類の存在目的が覆るような超常現象が発生するーー二0二0年にフランスで最も権威ある文学賞のひとつであるゴンクール賞に輝いた本書は、SF・哲学・宗教・スリラーと多岐に渡る要素を兼ね備えている。上質なフレンチ・フルコースを堪能するような満足感を与えるが、バケットのように歯ごたえある小説だ。

 物語は、超常現象に巻き込まれた人々が問題のエールフランス便に乗り合わせる前の日常から始まる——プロの殺し屋、『異常』という名の小説を執筆する売れない小説家、末期癌を告知された男性、カエルのペットを溺愛する幼女、妊娠が発覚した黒人女性弁護士、別れ話がこじれているカップル——彼らは夫々、一筋縄ではいかない境遇の中で生きていた。
 そしていよいよ運命の瞬間がやってくる。大揺れに揺れたボーイング787が着陸するや、現代科学では説明できない現象が乗客に起きた事が判明する。(何が起きたかを本書中盤で読んでのけぞって欲しい)

 当初乗客は内密に保安機構の管理下に置かれたが、最終的に自身のアイデンティティに関わる究極的な選択を強いられる。ある者は倫理観度外視で自分を守り、ある者は新しい自分を求めて過去と決別する。読者も『自分ならどうするだろう?』と思いを巡らしてしまうだろう。

 想定外のクライシスに立ち向かう国家や社会の様子をきめ細かく描写していることも本書の特徴だ。『異常』事態を解明するために、ノーベル賞級の科学者達が国家権力により招集される。彼らは『人類は、何者かがプログラムした仮想世界の中で生きている』という仮説を大統領に報告する。
 更に「人間は神の創造物である」という教義の正当性が揺らいだ際に備え、様々な宗教の高位聖職者が集結し、ホワイトハウスの地下で協議を始める。激論の末、宗教を跨ぐ共同声明を出すことで社会のパニックを避けようとするが、真実が国民に明かされた時悲劇は起こる。、安倍元首相銃撃事件はまだ記憶に新しく、宗教がらみの憎悪が引き金となって起こるバイオレンス・シーンはフィクションとは思えないリアリティがある。

 最後に、本書から得られる現代社会への警告を考えてみよう。人類は、コロナ禍が、当たり前だと思っていた日常をあっという間に奪い去る様を目の当たりにした。冷戦終了後三十年余り続いた先進諸国間の平和も、ロシアによるウクライナ侵攻であっけなく終わり、イスラエル・ガザ戦争も泥沼化している今、第三次世界大戦の勃発さえ現実的な脅威となりつつある。こうした世界規模の『異常』を何者かが作りだしていて、人類がどう乗り越えるかを実験している可能性を心配しなくてよいのだろうか? 

 この問いに対する答えは、本書に登場する数学者の次の言葉にこめられているだろう。
 『シミュレートされているにせよ、そうでないにせよ、人は生き、感じ、愛し、苦しみ、つくり、そして全員がほんのささやかな痕跡を残して死んでいく。[プログラムされているか否かを]知ることに何の意味がある?(中略)シミュレートされた存在のまま幸せになるまでだ』

 更に作者は、仮に我々の世界が仮想現実であるならば、なおのこと人類はもっと協力しあうべきだと、登場人物に言わせている。何者かが人類全体の反応を実験しているのであるならば、争い事にかまけて全体のパーフォーマンスを落とせば、プログラムのスイッチを切られかねないのだと。

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