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『ドライブ・マイ・カー』を観て ~と、その前に『女のいない男たち』を読んで~

1.『女のいない男たち』は「いない」系の極み 

いない。
今はいない。
過去には深く関わっていた、あるいは、少なくともこちら側には強い思い入れがあった人物と(何らかの理由で関係が途切れたことにより)今は会えなくなった。

このようなシンプルで漠とした、よくあると言えばよくある一つの状態を、けっしてぼんやりとではなく、むしろこれでもかと言わんばかりに明らかにくっきりと縁取って哲学的な文芸作品に仕上げるのが、村上春樹という作家の名人芸であり、お家芸だ。

これは、多くの人が知るところだろう。

いない。
不在。
喪失。 

たとえば『ノルウェイの森』は、まさに失った者の存在を太い軸にして、と言うより、世界すべてがその「いない」者に支配されているような状態で主人公の青春が語られるような小説だし、イ・チャンドン監督の『バーニング』の原作である『蛍・納屋を焼く・その他の短編』の中の「納屋を焼く」にしても、やはり重要な登場人物がいなくなることで、謎めいた物語の輪郭を一気に縁取る。

 ハルキ先生の本をすべて読破しているわけではないが、少なくとも私が読んだ作品には、登場人物の中の誰かの不在状態が、物語の起や承や転や結のどこかに常に据えられていたように思う。
あるいは、一人称の回想として語られることも少なくないので、冒頭の時点ですでに「その人はいない」状態の場合も多かった。

 いずれにしても村上春樹作品の軸となる登場人物は、不在状態を経て、むしろその存在感をいっそう濃厚で意味深いものに際立たせ、キャラ立ちするのだ。

「喪失」そのものにもそれは言えて、ハルキ先生独特の(外国語を翻訳した外国文学の日本語訳っぽいという意味で)日本文学離れ?した途方もなくハイセンスで洒落た語り口に乗せられた瞬間、その「いない」状態こそが、失った側の人生を左右する程の強いエネルギーに変換され、劇的にドラマティックな現象となる。
良くも悪くも。

このように、失われたものを極限まで丁寧かつ繊細に扱う「ロス表現の妙」とも言える文学的技巧の魅力にやられ、村上春樹作品にハマる人も多いのではないだろうか。
私自身、喪失感に苛まれた折々にハルキ先生の小説にすがってきたようなところがある。
まあ、ぶっちゃけ憧れているのだ。
人生の思わぬタイミングでふいに喰らう、胸を掻きむしりたくなるようなただ悲しみ一辺倒の自分の喪失感に、ハルキ先生風の彩りを添えてもっと文学的で哲学的な意味を与えてみたいと。

そして『女のいない男たち』と題され誕生したこの短編集。
タイトルからしてド直球に「いない」系。
これはもうお家芸マックスにつき、先生待ってました!の一作であることは間違いない。
で、私は、映画『ドライブ・マイ・カー』を観る前に、とても久しぶりにハルキ先生の作品を手に取った。


2. 融合して際立つ映画の個性 


映画『ドライブ・マイ・カー』
の脚本は、小説『女のいない男たち』の中の短編三作(「ドライブ・マイ・カー」、「シェエラザード」「木野」)をシャッフルさせ、オリジナルのエピソードを足して仕上げている。

原作を先に読んでいる人は、もしかしたら最初少しだけ、その混ぜ方に違和感をおぼえるかもしれない。
だが、違和感も最後まで観ると見事に覆る。
なるほどそういうことだったのか!と、驚くほど自然な形で融合していくのだ。
実はこの違和感すら伏線になっていて、つながりが見えてくると本当に「うまいなぁ」とただただ唸るばかり。

三作品の融合がここまで成功した理由は、やはり小説にはないオリジナル部分が秀逸だったからだろう。
原作のエピソード自体はそのままに使っているが、各エピソードの奥に潜むその先の「秘密」がオリジナルで補われている。
そしてこのオリジナル部分こそが、肝になっているといってもいい。

またこの映画のもう一つの特徴は、あえて回想を映像化せず、登場人物のセリフによって語らせるところ。
主人公が舞台演出家であることを意識したのかもしれないが、とにかくセリフで物語らせることを大事にしている。
映像作品においては、誰かが過去を語り始めると、その(過去の)出来事を別に映像化して示すのが主流かもしれない。
もちろんそれは映像作品の得意技の一つでもあるので、多くの場合、その方が効果的だと思う。
しかし本作においては、例外的にこのただ語らせる方式が作品をより深いものにしている気がした。

さらに、カメラの移動もカット割りも最小限。
役者の顔のクローズアップにしたまま、話が終わるまで延々動かない。
まるで観客自身も、相手の話を直接聞いているような感覚になる。
私なりの解釈ではあるが、この方法もまた一つの融合ではないかと思う。

小説と映画の融合。

目の前に映画としての映像を観せながら、同時に、頭の中にもう一つの映像をイメージさせるという「読書の作業」を観客に強いるやり方。
この方法が効果的に働くのは、真に「言葉」に力があるからだろう。
力があるからこそ、映像に頼らない形でも勝負できたのだ。

原作の良さを一切損なうことなく、映画としてのオリジナリティを際立たせる脚本。
小説の映画化としては、極めて理想的な形だ。

なんだか全然うまく言えていない気がするが、とにかく非常に高度な脚本だったことだけは伝えたい。


3.「サヨナラ」ダケガ人生ダ。 


「サヨナラ」ダケガ人生ダ。
かつて作家の井伏鱒二が、とある漢詩につけた訳だそうだが、まあ結局これに尽きるわけで、人生が長くなるほど実感する。

だが「サヨナラ」が言えた別れならまだいい。

その人との関係を今後も維持したい、またはもっと深めたい、あるいは二人の間にある溝を埋めていきたいなどといった望みがあったにも関わらず、何の前触れもなく突然その存在が消え、希望が一気に奪われてしまうことがある。

音信不通。
失踪。
突然の死別。

など。

わからない。

この色々な種類の「わからない」をたくさん残したままの不可解な別れが、想像以上に辛いものであることは、経験者なら誰でも知っているだろう。

人は、「わからない」という状態にどうしようもなく弱い生き物だから。

せめて、その人との最後の時を、最後だとわかって過ごせる時間がほんの少しでもあったのなら、何か出来たかもしれない、何か言えたかもしれない。
でもそれが不可能になってしまった時、人は出口を見失う。

私は、自ら命を絶った人の葬儀に4回参列したことがある。
2人は身内、2人は友人。
それぞれの詳細を語ることは一旦ひかえるが、どういう事情があったにせよ、自殺による死別は実に究極的な「不可解な別れ」であり、彼らと親しくしていた者にとっては、終わりなき苦しみの始まりともなる。
その人との間にあった謎は、すべて謎のままになるから。
永遠に。

残された者は、「わからない」という混沌の中に置き去りにされ、出口を求めてもがくことになる。
だから最初は、二度と更新されない乏しい情報をもとに、何かをわかったつもりになろうと想像力をフル活用して頑張る。

いっそ全然勘違いでもいい。
的外れな思い込みだって構わない。
哲学だって文学だって心理学だって映画だって自己啓発だって霊感占いだってスピリチュアルだって何だっていいから、何か私にそれらしい理屈を教えてくれないだろうか。
そうやって、あらゆる手段を尽くして答えを探す日々が続く。

しかしどれほどあがいても、心の空洞にどんな形のピースもはまりきらない場合がある。
そうなったら、もう最後は放置。
無かったことにして、放り出すしかない。

わかったフリしてスルー。

見たくないものから目をそらしていれば、とりあえず、何事もなかったように人生は続いていく。

映画『ドライブ・マイ・カー』は、つまりはそういうことをテーマに描いている作品なのではないかと私なりに理解している。
子供を喪失した女、妻を喪失した男、母を喪失した娘……。
登場人物それぞれが、扱いきれない巨大な「喪失」に苦しみ喘ぎ、もて余し、じゃあ一体どうしたらいいの?という話。


4.正しく傷つく方法 


「僕は、正しく傷つくべきだった」

主人公の家福のセリフだが、結局はこの一言にすべての答えがあった。
※ちなみに小説においては、「木野」の主人公の木野によって概ね同様のことが語られる。

家福は、役者であり演出家でもあるから、文化、芸術の分野においてあらゆる知識を持っているし、理屈や理論をひねり出す能力だって高い。
だから、妻の喪失の苦しみすら、インテリジェンスで乗り切ろうとしているふしがある。
しかしある若い女性ドライバーとの出会いをきっかけに、彼は自分の真実に気づくことになる。

では彼にとっての真実とは?

それは、

自分が深く傷ついていた。

ということ。

それだけ?
そう、それだけ。
結局、向き合うべきは、他者ではなく自分だったというお話。
自分の感情に気づき、感じ、その感情を感じ尽くす。
ただそれだけが必要だったのだ。

大切な誰かを、何かを「喪失」した時は、それ相応の苦しみを真っ向から、逃げずに存分に喰らいきらなければいけない。
理由も理屈も探さなくていいから。

そもそも他人を理解できると考えること自体、思い上がりなのだ。
そんなことは永遠に無理。

理解してやるべきは自分の感情であって、それ以上でも以下でもない。

悲しいなら悲しめ。
憎みたければ憎め。
悔しいなら悔しがれ。
「わからない」ことに憤りを感じるなら、憤りまくれ。

人は、ただそれだけのことを一生続けていくしかない。

だから私みたいに、自分のシンプルな悲しみ、苦しみを、あえて村上春樹の小説風に彩って意味深いものに昇華させたいなんて思うこと自体が、正しく傷つくことから逃げていることになる。
意味深いも何もない。
自分の体験は、体験したというだけで最初から意味深いのだし、さらにそこに生まれる物語は、いわんや小説より奇なりというやつだ。

それにしても。

私もいいかげん人生の折り返し地点をけっこう過ぎて、これからは出会いの数より別れの数の方が圧倒的に増えていくのだろう。
別れ多き人生の始まりとも言える今の時点において私は、この痛みへの予防策を一つ考えた。

それは、誰と会う時も「これがこの人と会う最後の時かもしれない」と思って別れるべきだということ。
会いたいと思えばいつでも会えるというのは、大間違いだ。
実際、上記に記した死別した4人も含め、また会えることを疑いもせず軽く手を振って別れたまま、会えなくなってしまった人はたくさんいる。
また会いたいと強く強く願っていた人でさえ。

それに。

次の瞬間、突然この世界からいなくなるのは、もしかしたら自分の方かもしれないのだから。

これからは、相手が誰であっても「では、またお会いましょう」と言って手を振りながら、今が最後と思って別れよう。

では、またお会いしましょう。

(END)

『女のいない男たち』
著者:村上春樹
初版発行:2014/4/18
発行元:文藝春秋
 

『ドライブ・マイ・カー』
2021年公開/179分/日本
監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介 大江崇允
出演:西島秀俊 三浦透子 岡田将生 霧島れいか

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