20世紀の歴史と文学(1911年)

1911年は、明治44年である。

江戸時代末期に生まれ、幕末の世と文明開化の時代を生き抜いた明治天皇も、58才になっていた(即位は14才のとき)。

そんな明治天皇だが、1年前の1910年に暗殺計画を立てた者がいた。

今の長野県安曇野市にある明科(あかしな)という地で、爆発物取締罰則違反容疑で逮捕された宮下太吉(みやした・たきち)であった。

宮下のほかにも3名が計画に関わっていたのだが、なぜ彼らが明治天皇を暗殺しようと考えたのかというと、それは思想的な理由だった。

この明治時代には、知っている人はいるとは思うが、例えば、内村鑑三の不敬事件もあった。

内村鑑三は、当時の第一高等中学校(現在の東大教養学部がある場所)の教師だったのだが、1891年に教育勅語奉読式が校内で実施された際に、天皇の御名(ぎょめい)に対して「最敬礼」を行わなかったので、同僚教師や生徒から「不敬」だと非難された。

これは、内村鑑三がわざとそうしたのではなく、彼は敬礼を確かに行ったのである。要は、深く敬礼をしていなかったという理由で非難されたのである。

今では考えられないことであるが、当時は、天皇崇拝は絶対的なものであり、内村鑑三は10年ほど前にキリスト教の洗礼を受けていた。

ただ、当時の人々の考えでは、キリスト教を信仰していることと、天皇の御名に最敬礼をすることは別の問題として考える必要があった。

だから、この不敬事件は(不敬といえるのかはともかく)、マスコミも大きく騒ぎ立てたのである。

話を明治天皇の暗殺計画に戻すと、この計画を立てたといわれている宮下たちは、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)が中心となって結成した平民社発行の『平民新聞』を読んで、だんだんと現人神(あらひとがみ)崇拝を排除する考え方に傾倒していった。

平民社は、1903年に日露戦争反対の非戦論を唱える幸徳秋水らが社会主義を宣伝するために設立されたもので、この活動が現人神崇拝の否定につながったのである。

現人神崇拝とは、天皇は人間でありながら神でもあるとする考え方であり、当時の大日本帝国憲法には、「大日本帝国ハ万世一系(ばんせいいっけい)ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」(第一条)、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第三条)という定めがあった。この絶対的な天皇主権の国家体制を維持するため、教育現場では「天皇の神格化」が徹底して叩き込まれていたのである。

そういった状況下で、宮下たちの暗殺計画が露見し、1911年に彼らは大逆罪(=天皇などの皇族に危害を加えようとした罪)で死刑となり、亡くなった。

だが、暗殺計画に関わっていなかった幸徳秋水ら社会主義者も、当時の警察や政府関係者によって、宮下たちとともに検挙されたのが、もう一つの大事件だった。

第二次世界大戦で日本が敗戦して、戦後になってやっと、この幸徳秋水らの検挙が冤罪であったとする見方が発表されるようになった。

だが、無実を訴えていた幸徳秋水は、宮下たちとともに死刑判決を受け、1911年に39才の若さで亡くなったのである。

この大逆事件を公然と批判した勇気ある文筆家で、幸徳秋水の死に涙したのが、小説『不如帰』の作者である徳冨蘆花であった。





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