歴史をたどるー小国の宿命(48)

平清盛が、崇徳天皇と同時期に生きていたことを、知っている人は少ないだろう。

崇徳天皇は、鳥羽上皇の第一皇子とされているが、実は、清盛同様、白河法皇の子どもだったのではないかといわれている。

もし、それが事実であったならば、鳥羽上皇が早々に実子ではない崇徳天皇を退位させて、近衛天皇を即位させたのも、うなずける話なのである。

そうすると、清盛と崇徳天皇は、同じ父親のもとで生まれたことになるが、1156年の保元の乱では、お互いに敵同士になった。

清盛は、近衛天皇の後に即位した後白河天皇の味方になったのである。

保元の乱は、鳥羽法皇が53才で亡くなったことで、かねてから鳥羽法皇に不満を持っていた崇徳上皇が、自分の失地回復のために挙兵するのではないかという噂が流れたことがきっかけで勃発した。

つまり、崇徳上皇がこれ幸いにと挙兵したのではなく、噂の流布で追い込まれて、やむなく挙兵するに至ったのである。

この1年前に、近衛天皇が17才で病没しているのだが、亡くなる前に目が悪くなっていた。(失明に近い状態)

これが、どういうわけか、崇徳上皇の家臣だった藤原頼長(よりなが)の呪詛によるものだという噂が流れた。

崇徳上皇は、近衛天皇が亡くなったとき、次は我が子を即位させたいと思っていたが、そうはさせまいとする力が働いて、崇徳上皇側の立場を悪くする噂が流れたのである。

当然、鳥羽法皇も崇徳上皇も周りの家臣も、疑心暗鬼の中で対立するようになった。

そして、崇徳上皇は、異母弟の後白河天皇と戦うことになってしまうのである。





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