【続編】歴史をたどるー小国の宿命(91)

いよいよ本シリーズも、今月20日(金)で終了することになった。

今日を含めて残り10回、明治維新から19世紀末(1900年)までの33年間を解説していこう。

明治時代の幕開けは、明治天皇による王政復古の大号令が1868年1月3日に発出されたことにより実現し、それは同時に、江戸時代の終わりを意味した。

だが、いくら明治天皇の勅令といえども、天皇の名で出されたに過ぎず、朝廷内部の倒幕派と薩摩藩の意向が強く反映されたものであった。

その中心人物だったのが朝廷の公家では岩倉具視であり、薩摩藩の中では西郷隆盛や大久保利通がいた。

すでに、土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎は、この王政復古の大号令の1ヶ月前に暗殺されていた。

中岡慎太郎は、瀕死の状態ながらも龍馬より2日は生き延び、残された命をかけて、「岩倉具視に後を託す」旨の遺言を残した。

幕末の土佐藩の関係者で、このとき存命だったのは、土佐藩の第15代藩主の山内容堂と板垣退助だった。

坂本龍馬や山内容堂は、できれば戦争をすることなく、新時代に移行することを望んでいた。

ところが、板垣退助(=当時は乾退助)は倒幕の強硬派であり、「これまでも時代の変わり目は戦争が起こっていたし、江戸幕府だって関ヶ原の戦いを経て樹立されたではないか。」という旨の主張を行い、山内容堂は対応に苦慮した。

板垣退助には、同じ土佐藩に後藤象二郎という幼なじみもいた。彼ら2人は、西郷隆盛や大久保利通とともに、のちに明治政府の中心人物となる。

さて、こうした倒幕強硬派と穏健派の対立が、結局は戦争へと発展したのはなぜであろうか。

これは、薩摩藩の挑発行為が原因であった。

新政府を仕切りたい薩摩藩にとっては、慶喜の存在が邪魔であり、できれば政治に関与されることは避けたかったのである。

だが、慶喜を支持する旧幕府勢力はなお健在であり、慶喜が大政奉還したとはいえ、それは新政府に取り入ろうとする可能性もあったわけであり、結局は、板垣退助のいうように、武力行使もやむなしの状態だったのである。

そこで、薩摩藩は浪人を雇って、彼らに江戸市中で放火や強盗を行わせ、混乱に陥らせたのである。

度重なるこうした浪人の乱暴狼藉に、江戸の旧幕府関係者は、とうとうブチ切れて、江戸にある薩摩藩の藩邸を焼き払った。

時を同じくして、こうした薩摩藩の挑発行為は、江戸からの使いの者によって慶喜の耳にも入り、身の危険を感じた慶喜は、海路で関東に逃げることにした。

そして、まず、鳥羽・伏見の戦いが新政府軍と旧幕府軍の間で起こったのである。






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