歴史をたどるー小国の宿命(93)

後醍醐天皇が次期天皇となる光明天皇に譲った神器は、「実は偽物なのだ、本物は自分が持っている。」と当の本人に明かされたとき、多くの人はあきれ返ったことだろう。

つまり、まだ自分が天皇として実権を握っているのだということである。

ただ、京都にはいられないので、奈良の吉野に移動し、後醍醐天皇は「南朝」の天皇となった。

もともとあった京都の朝廷は「北朝」とされ、後醍醐天皇が建武の新政の前に隠岐に流されていた間の光厳天皇に次ぐ第2代として、光明天皇が即位した。

こうして、南北朝にそれぞれの天皇が在位するという異例の事態が起こったのである。

室町幕府の樹立とともに南北朝時代が始まり、世の中はしばらく混乱が続くことになる。

さて、楠木正成が湊川の戦いで自害して亡くなったことはすでに触れたが、新田義貞も、2年後の1338年に戦死する。

南北朝時代は、単に朝廷や天皇が並立したというだけでなく、後醍醐天皇を中心とした南朝勢力と光明天皇を中心とした北朝勢力の対立の時代であった。

新田義貞は、後醍醐天皇側に最後まで付き、足利尊氏が擁する北朝勢力の武士と引き続き戦ったのだが、最期は眉間を矢で射抜かれ、戦死した。

そして、後醍醐天皇も、そう長くは実権を握ることはできなかった。すでに50才になろうとしていたが、この頃から体力的に弱ってきたのである。

1339年8月、自分の死期を悟った後醍醐天皇は、自分の息子(七男)である後村上天皇に譲位して、その翌日に息を引き取った。

南朝の第2代として後村上天皇が即位し、北朝の光明天皇と対峙することになったのである。






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