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知るという責任

前回の自己紹介のページで、戦争のことを話したがらないおじいちゃんに、私が頭を下げて話を聞いたことに関して、おじいちゃんにとって良かったかどうか今でも分からない。
俳優のエゴなのかもしれないとも思うんだけど、演じる上で、おじいちゃんの孫として、日本人として、おじいちゃんが何でそこまで話したがらないのか知る責任もあると感じていた。

おじいちゃんは死ぬ直前まで日記を書けていたのかなぁ。でも戦争の話を聞いたのは96才の時なので、80年近く日記を毎日ひたすら書いていたことになる。

おばあちゃんからは、電話でひたすら戦争当時のことを聞き出していたのだが、ある日「今の人たちにはどうせ分からんわ」と言われ、カチンとなった私は突然電話をブツっと切ってしまった。
私は知りたくて、分かりたくて電話をしてるのに、何でそんなネガティブなことを言うの!?と悲しくて怒りが噴火してしまった。

しかし、冷静になって考えた時におばあちゃんの言う通りなのかもしれないと思う。

どんな思いで空襲から逃げて、どれだけカボチャの種とか茎がありがたかったか。
無人島に遭難してみないと分からないような気がする。

あんなひもじい思いをさせたくないからか、おばあちゃんは私にご飯をたくさん食べさせた。
小さい頃、ご飯を食べたくないとおばあちゃんにぐずったら物凄く怒られていた。
おばあちゃん家に行くと、大量の料理が毎回出てきていた。
小さい頃食べられなかった頃の反動なのかもしれない。

コロナ後、二人には会えていなくておじいちゃんは99才で他界した。お葬式も行けなかった。
おばあちゃんは有料老人ホームに入所して会えなくなった。

「父と暮せば」の取り組みは、私の幼少期の追憶でもある。



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