⑰自分は、本当にサッカーが好きなのか?


昨日、久々にサッカーをした。
ウクレレを弾いた後、散歩しに行こうと玄関まで行ったときにふと、
「ボール蹴りたいな」
という気持ちが身体のどこからか湧いてきた。


小学2年生からサッカーを始め、社会人まで定期的にサッカーをしており、これまでの人生の8割5分ほどはサッカーを中心に据えた生活を送ってきた。サッカー≒自分というアイデンティティーのようなものが形成されていた。
ただ今年の1月末に会社を辞め、2カ月間のうつろなベッド生活を終え、サッカーとも自然と距離をとるようになっていた。


そして自分自身の身体と真正面から向き合い始めた時から、ずっと頭の片隅に浮かんでいた様々な疑問とも向き合うことになった。
そのひとつが、

「そもそも自分は、本当にサッカーが好きなのか?」

という疑問だった。
これまで頭の中で考えていたサッカーとは、
”仲間とプレーする喜びを感じられるもの”
”チームに貢献することに喜びを感じるもの”
といったことだった。
しかしこれらは、外からの考えを直輸入して頭で思い込もうとしていたもので、自分自身のプレーや活躍に満足するためのものという実感とは大きくかい離していた。
そのギャップに長年苦しんでいた。


まず、この問いがふと頭に浮かんだ時に、少々苦い感情を抱いたことを覚えている。なぜなら、もしこの問いの回答が
「NO」
ならば、これまでの人生(特に小~大学生時代)をほぼほぼ全否定してしまう危険性があったからだ。今まで真剣に取り組んできたサッカー、そしてそれに費やした日々はなんだったのか、なんのためだったのかという、いわばアイデンティティーの喪失が起こり得てしまう可能性が多分にあった。


もともと、学生時代から
「自分は、本当にサッカーが好きなのか?」
「なぜサッカーを続けているのか?」
という疑問は無意識のうちに薄々持っていたように思う。ただ考えるめんどくささにかまけて、目をそらし、
「自分はサッカーが好きだ。だからサッカーを続けている。」
と言い聞かせていた。おそらく、
「NO」
であった時にどうなるのかがわからず、しっかりと向き合うことが怖かったのだ。
それが、この空白の期間に、自分への問いという形で明確に目の前に現れたわけである。



結論から言うと、答えは
「NO」
だった。
ただ、それは
”これまでのサッカーとの向き合い方”
という文脈においては、
「NO」
であるということを付け加えておきたい。



本当にサッカーが好きなのかどうか?という問いに対して、まず

「自分にとってサッカーとは、なんなのか?」

という問いと向き合うことから始めた。
自分にとってサッカーとは、
”周りから評価を得るためのツール”
だった。(そのようになっていったといった方が正しいか)


この答えは特に考え込むことなく、すんなりと出てきた。
自分のプレーが上手くいったときは悦に入り、上手くいかなかったときは落ち込む。試合の勝敗も大事だったが、目を向けていたのは自分が上手くいったかどうかという結果であり、常に一喜一憂の乱気流の中にいたような感じだった。



この捉え方だと、上手くいっている時は評価されやすいのでサッカーが好きだし、上手くいっていない時は評価されない(と思い込んでいる)のでサッカーが嫌いになる。結果に自分自身の感情や行動を左右されやすくなっていく。


特に高校・大学時代は結果を求めすぎて、本当になすべきことや大切なことが全く見えなくなっていた。結果に一喜一憂していると、視野が狭くなり、短期的な結果を追い求めることばかりに必死になってしまい、日々の小さな積み重ねを疎かにしてしまう。


「サッカーでは、上手くいかなければダメだ。そうじゃないと自分はなにもできない。」
という考えで凝り固まり、常に焦燥感に駆られていたし、~しなければならない、~すべきだという強迫観念を持つようになった。


そして、この考えが凝り固まることで、凄惨の極みとなったのは、
自らのみならず、チームメイトなど他者に対しても、過剰に要求してしまうということだった。
「なんでやらんの?」
「なんでできひんの?」
と相手に当たってしまうような態度をとってしまい、どんどん険悪な関係になっていく。自分のプレーだけでなく、味方のプレーも評価の対象とみなし、失敗したりミスを犯したりすれば、怒りの矛先が向かう。逆に味方が良いプレーをしても、素直に喜べず、悶々と自分に対して不満が溜まっていく。



好きなサッカーをしているはずなのに、やればやるほど負の感情に雁字搦めにされていく。。。



ずっと抱いてきた心の叫びを明文化すると、こういった形になると思う。
好きなはずなのに嫌いになるという現象が起こっていた。



「おそらく、サッカー自体は好きなはずだが、今のままではどんどん嫌いになっていき、このまま辞めてしまう可能性がある。それでは悲しすぎる。」
と悲痛な想いを抱いていた。
そして、この空白期間にジャンルを超えて様々な考えに触れ、捉えなおしてみようと試みた。


そして、
”サッカーそのものが好きだったのではなく、評価を得るためのツールとしてのサッカーが好きだった”
のではないかと思い至った。
過去の感情やエピソードを振り返り、検証していくことで確信を強めた。



しかも、それはサッカーに限らずに、勉強など他の分野にも共通していたことで、自分が行うあらゆる活動は周りからの評価を得るためにやっていたんだと強く実感した。



サッカー好きうんぬんの話ではなく、根本的に生き方自体に問題があったのだと改めて感じた。

ただ、
「どうすればいいのか?」


正直、自分の生き方や考え方がなにかおかしい、根本的になにか間違っているぞという想いはずっと持っていた。でも、じゃあどうすればいいのか?がわからず、答えを求めて自己啓発やハウツー系に走ったり、周りに文句を垂れ流したり、自己憐憫を繰り返し、そのままずるずると破滅に向かっていくことになった。
それはサッカーに限らず、これまでの人生において。




ここで、第二次世界大戦のアウシュヴィッツ強制収容所で生き延びた精神医の言葉を引用したい。


ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度転換することだ。私たちが生きることから何か期待するのではなく、むしろひたすら、生きることが私たちからなにを期待しているかが問題なのだ、
『夜と霧』/ヴィクトール・E・フランクル


ここで生きる意味をサッカーをする意味に置き換えて考えてみると、何が問題なのかが少しずつ見えてくる。


サッカーをすることにより、何か(評価、結果など)を得ることを期待するのではなく、サッカーをすることが自分からなにを期待しているのかと問う姿勢を持つことが大事になってくる。



これは、これまでの自分に対する問い方のコぺルニクス的転回であり、目から鱗だった。
周りの評価や結果といった一律であるようで、コントロール不可な基準軸から解放され、ただひたすらに自分はサッカーを通してどうありたいのかを問い続けることが大事だと気づくことができた。



では、結果を疎かにしてよいのか?という質問に対しては、もちろん答えはNOとなる。サッカーにおいて、結果を追い求めるのは絶対だ。勝利を求めないスポーツには価値はないと思う。スポーツは勝ち負けを決するためのものだから。
ただ、結果がすべてではなく、絶対視する必要はないということだ。
結果をどん欲に求める中で、自分はどうありたいのかを問い続けることが大切なことだと思う。



では、ここで、

「自分は、本当にサッカーが好きなのか?」

という最初の問いに対してはどう答えるか。


それは、
「I don't know. I just keep asking . I don't think I dislike soccer at least.」

という回答になる。
わからないけど、考え続ける。少なくとも嫌いではない。




9月から社会人のサッカーリーグが開幕する。
僕の所属するチームはお世辞にも強いとは言えない。
おそらく簡単に勝って結果を残すことは難しいものになるだろう。

ただ、

「自分はそのチームを通してサッカーをすることから何を期待されているのか?」

を問うことはできる。

そして、暫定的ではあるがそれなりの仮説を考えた。
するとなんだかサッカーをすることが楽しみになってきた。

サッカーは閉塞的でこれ以上は何も得るものはないと思い込んでいたが、実はもっと多くの価値観軸があるような気がしてきて、まだまだサッカーを楽しめるのではないかと思え始めた。


それを実践し、試行錯誤を繰り返す中で、

最初の問いである、

「自分は、本当にサッカーが好きなのか?」

に応えていきたい。

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