好きだった文章が書けなくなった

好きだった文章が書けなくなった。そして、好きだった小説も読めない。書きたい。読みたい。その欲求はたしかにそこにあるのに、体がそれを許さなくなったのは、一体なぜなんだろう。とはいえ、毎日noteを更新しているため、文章を書く必要がある。書きたいことはたくさんあるのに、肝心の言葉が喉元から出てこない。

先日、箕面の滝に行った。きっと疲弊まみれの精神を癒したかったんだろう。岩場から少しずつ落ちていく水。下に行けば行くほど重力のせいで勢いが強くなっていく。流れる滝を見ながらお金が発生すればいい。なんてありえもしない現実逃避をしていた。箕面の滝にいる猿たちはやけに人間慣れしており、カメラを向けられても動じるどころか、自分のペースを乱さない。

そんな猿を見て、「ああこんな風に気ままに生きていたい」とつい思ってしまった。猿にだって悩みはあるのだろう。人間の方が贅沢な暮らしをしていることは間違いないし、僕たちみたいにお店に入って、お金を落とせば食事が出てくるわけではない。食料はその辺に落ちている木ノ実がほとんどで、彼らにも彼らなりの苦労がある。それを気ままな猿を見て、羨ましいだなんて、滑稽すぎる。

ああ、それにしても文章が書けない。連日のnoteで書いた文章はどれも短文で、SNSでシェアをするかどうか躊躇ってしまったものばかりだし、自信を持って「私が書きました」と思える文章ではなかった。書きたくても書けない時期はライターになってからも数回あった。今回もきっと一過性のもので、いつの間にか書けるようになっているんだろう。

文章が書けないことに嫌気が差して、気分転換に窓を開けた。秋の匂いと雨の匂いが入り混じる。月が見たいのに、雲が邪魔をして見ることすら出来ない。人生は思った通りにいかないのがセオリーだけど、それは全部うまくいかないと思っている自分のせいなんだろう。前向きになろう。なんて馬鹿か。無理に前向きにならなくてもいいし、夜に沈むだって人間の立派な務めだろう。

それにしてもなぜ文章を書けなくなったんだろう。その理由がわからない。でもわくわくすることにワクワクしなかったことは事実だ。本当は誰かの背中を押すような、沈んだ気持ちが少しでも温かくなるような文章が書きたいのに書けない。綺麗なものを見たときに、その綺麗さを伝える術を僕は持っていない。そうだ。本当に綺麗なものを見たときは、言葉が出てこなくなるに決まっている。そうやって自分を正当化して、書けない自分を救ってしまおう。

この感情は一過性のもので、時間とともに消え去っていく。気の向くままに生きればいい。文章と向き合い続ければ、いつかきっと書けるようになる。人生なんてそんなものだ。他人に期待しすぎるのも、自分に期待しすぎるのもやめてしまおう。猿のように気ままに、自分のペースで生きればそれでいい。

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