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確かに、あれは甘い夜だった

仕事で上司から理不尽に怒られたことにムカムカして、居酒屋に駆け込んでやけ酒をキメた。嫌なことはアルコールで流す。でも綺麗さっぱり洗い流せるわけもなく、酒を飲めば飲むほどにその不条理に腹が立つ。2軒、3軒と回ったのちに、すっかり酔いが回ったからか、唐突に甘いものが飲みたくなって、自動販売機の中に小銭を入れる。アルコールのせいか手元を見誤って、ブラックコーヒーを購入してしまった。まるでそれは人生は甘くないと誰かに言われているような感覚だった。

愚かな自分を嘲笑うかのように、空はどんよりしている。人生が甘い人もきっと存在していて、それは時の運が大きく左右しているのかもしれない。裕福な家庭に生まれ育ったとしても、裕福だからこその悩みがある。そう考えると、それはただのないものねだりに過ぎないのだろうという結論に至った。

綺麗だった桜が町から姿を消した。あれだけお祭り騒ぎのように桜の木の前に人が集まっていたのに、葉桜になった途端に人の姿がごっそり消えた。桜や上司然り人間とは実に都合のいい生き物だ。すぐさま興味が消え失せた桜の木に少しだけ同情する。僕ごときに同情されたところで気休めにもならないのだろう。春は花が咲くが、虫が顔を見せるから好きになりきれない。虫は光のある場所に集まる。街灯に群がり、そして、知らないうちに街を照らす熱に身を滅ぼされるようだ。太陽に近づきすぎた天使が羽をもがれるという逸話のような話である。虫は自分が神になったと錯覚しているわけではないと思う。ただ僕と同じように自分の身の丈を知らないだけだ。

身の丈にあった選択をしなさい。そう言われても、身の丈がわからず、いつも失敗ばかりを繰り返している。手を伸ばせば届きそうで、いつも手が届かない。そして、自分の実力はこんなものかと落胆しては、後悔の渦に苛まれる。身の丈に合う選択がなんなのかがわからないことに手を焼き続けている。公園の街灯がジーと音を立てて光を灯す。一体何を照らしているのだろうか。そうやって誰かの光になったと見せかけて、それが紛い物だとわかるのはいつだって事が終わってからの話だ。

そういえば今日新宿で新社会人の方が入社1週間たらずで、社会人が思ったよりも楽しくなくて、絶望していると口にしていた。そんなことないよと伝えたとしても、彼はその言葉を素直に受け止められないだろう。もう少しの辛抱だなんて、そのもう少しがいつになるかは誰にもわからないし、その言葉によって相手の人生が潰れる可能性がある。暗闇の中でずっと彷徨い続けるかもしれないし、すぐさまトンネルの出口が見つかるかもしれない。だから、僕は彼の社会人生活が楽しくなりますようにと、神に祈る以外に何もできることがなかった。

公園のベンチに腰掛けて、ブラックコーヒーの缶を開けようと試みる、普段なら簡単に開けられるのに、酔いのせいかなかなかなかなか開けることができない。こんなに簡単なこともできないのかと肩を落とす。なんとか開けることができたブラックコーヒーを飲むとやっぱり苦かった。半分ほどしか飲めずごめんなさいと言いながら下水道に流す。帰路、射止めたいと思っていた女性と偶然出会った。そして、彼女が僕に声を掛ける。

「ねえ、これから家で飲み直さない?」

確かに、あれは甘い夜だった。

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