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我が家の会話が長い理由

※目安:約2200文字

昨夜小一時間ほど息子と話をしていた。
ちなみにこれは
我が家にとって特別長い時間ではない。

自分も息子も診断はもらっていないけど
息子→ADHD(注意欠陥多動症)
自分→ASD(自閉スペクトラム症)
の傾向を強く持っている
と、医師の所見を受けている。

つまり
ひとり親家庭にして、構成員全員が
発達障害グレーゾーンというわけだ。

今回はそんな
発達障害とか自閉症とか
そういう話なので
苦手な方はスルーしていただきたい。

定型発達症候群チェックシート

随分前に
『定型発達症候群チェックシート』
というものをネット上で目にした。
今更だけど、この話題をきっかけに
今回話が盛り上がったのだ。

そもそもこのチェックシートは何かというと
いわゆる『普通の人』の
傾向をチェックするものだ。

発達障害の分野では
当事者を「非定型発達」と呼ぶことがあり
それに対して当事者ではない人
つまり普通と言われるの人の事を
「定型発達者」と呼ぶことがある。

その「普通の人」というカテゴリーに
あえてヘンテコな名前をつけて
『こんな傾向があったらあなたは定型発達症候群かも?』
と架空の病気への紐付けを
煽るチェックシートだ
(そういう目的で作られてはいないと思うけど)

マジョリティとマイノリティ

世の中を整えるのに
マジョリティ(多数派)の特性を活かすのは
まあ当然の流れだと思う

しかし
そこに嵌れないマイノリティ(少数派)にとって
自分の特性によっては
大なり小なりやりづらい事柄もあって
そこも「努力でなんとかせい」
……と言われる傾向が、残念ながら強い。
だから、自分でも努力不足だと
自己嫌悪に陥ることが増える。

小さな頃から
下手したら物心ついた頃から
自分の感覚が間違っていると
教育されるわけだから
人とのコミュニケーションも苦手になり
自ら孤立する人だって、おそらくいる。

それによって二次障害を起こす事もある。

二次障害とは
一次的な障害を原因とした影響で
二次的な症状を発症させてしまうこと。

何を隠そう自分自身もそれである。
二回の入院とリハビリを経て
今は社会復帰しているけれど。

個人的な体感だけど
多数派が作る仕組みの中で
不具合を感じる少数派が
声を上げることは難しい。

圧倒的に少数派の人口密度が低いため
個人的なわがままと
捉えられることもあるからである

病院や支援学級へ行っても
求められる大筋は
「普通に近づくこと」なのは
少々悲しく思う。

カテゴリーに当てはめる『傾向』とは

発達障害とは違うけど
最近ジェンダーの問題などでも
似たものを感じている。

「こういうカテゴリーの人に対する正解の対応はコレ」
「普通のこちら側が理解してあげる」

少し乱暴な言い方をしてしまったけど
こういう印象を持たれている
とさえ感じてしまう時がある。
もちろん全員ではない。

パブリックイメージ=正しい理解
と勘違いしてしまう人が
残念ながら一定数はいると感じている。

健常の方々の中にだって
「みんな違ってみんないい」
という言葉に共感する人がいる。
少数派を、あるいくつかの『傾向』に
当てはめようとするのは多分難しい事だ。

人と人のコミュニケーションに
近道はないんじゃないだろうか。
健常の方々だって言うでしょ?

「結局、『人による』んだよねぇ」と。

なんでじっとしていられないのか
なんで固まってしまうのか
どうして空気が読めないのか
なぜ大きな音を嫌がるのか
……などなど
表面的な「人と違う」を
「面倒くさいヤツだな」と感じる前に
その背景を少し想像してみてほしい。

もちろんあなただけに強いるのではなくて
みんなが、お互いに。

その際、特性を人に説明する時に
わかりやすくするツール
それが「名前」であり「傾向」なのかな
と認識している。

で、チェックシートがどうなったかというと

冒頭で話題に出た
『定型発達症候群』
なんてものは存在しない。

チェックシートだってきっと
マジョリティの「あるある」が
網羅されたものなのだと思う。

だから、定型発達(健常)の方々が
チェックシートに取り組んだところで
当てはまるのもあるし
当てはまらないのもあるだろう
でもそういうものなんじゃないか?

マイノリティのあるあるだって
結局そう言うものなんだよね
という会話だった。
これを小一時間もかけて話していたのだ。

我が家の会話は長い

いくつかの傾向に当てはめるなんて
困難だ、とは言いつつも
そもそものパブリックイメージの一つとして

・ADHD→話があっちこっちに展開する
・ASD→言葉通りに受け取り、比喩などが通じにくい

というものがあるが
それはあながち間違ってはいない。

当事者それぞれに程度の差はあれど
特性としては合っていると思う。
ここで言う特性とは
努力しても根本からは解消されないものだ。

だからこそ
息子と自分が会話すると大変なことになる。

だけど、それをお互い分かっているからこそ
お互いの特性を受け入れつつ
言いたいことがより正しく伝わるようにしよう
……と努力しながら話す。

・どちらかに合わせる
・どちらかが正しい
という概念はもはやなく
お互いがお互いにちゃんと伝わるように
ちょうどよく噛み合うように
言葉を選んでいる。

息子の話が主旨から脱線しかけたら
気づいたこちら側が軌道修正する。

息子の発した言葉にポカンとしていたら
あぁ、比喩が伝わらなかったんだなと
分かりやすい言い方に直してくれる。
息子が成人を迎えた今だから
できるようになったと言うのもあるが。

「正解の対処を効率よくするために理解する」
のではなく
理解した特性を踏まえて
想像力を使ってできる限り歩み寄る方法を
網の目を潜るようにして
リアルタイムで考える。

だから、我が家の会話は長い。
通常の会話でも疲れるというのに
家での会話だって正直疲れる。
でも、それで良いじゃないか。


最後まで読んでいただきありがとう
ではではまたまた

梅本龍

最後まで読んでいただきありがとうございます!