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「たまたま生きているわたしたち」が死ぬことについて考えること

このnoteでは、死について書きます。なので、そういう話が苦手な人、わたしがそれについて話すのが嫌な人は読まない方がいいかもしれません。でも、特別死を肯定したり否定したりするようなことが書きたいわけでもないし、自分が死にたいという話を書きたいわけでもないです(どちらかといえばそれなりに生きていたい!)。ただ単に、死についてとってもポップに話したいなと常々思っていたので、今回やってみようと思います、読んでくれる人たち、気楽に読んでね😌



最近、わたしの好きなアーティストのキタニタツヤが新アルバムを出しました。その中の曲に、「私が明日死ぬなら」というものがあります。

この中の歌詞に、「私が明日死ぬなら、もう写真を眺めるのは止そう 髪を切った日の午後のように、あなたに会いたくなるのでしょう」というのがあって、これを聴いたとき、なんて美しい歌詞なんだろうと思いました。明日死ぬなら、わたしは何をしよう、と考えたくなりました。


実は、1年ほど前にそんなことをコンセプトにした写真展をしました。そのとき、わたしは高校からの友だちと写真展を開いたのですが、そのコンセプトは「終末世界」で、わたしたち(わたしとその友だち)が今日で死ぬならなにをしようか、という設定でした。

そこでいろいろ考えて写真を撮ったのですが、それはわたしとその友だちという「2人の世界」の話で、空想的な物語ではあったので、わたし一人が死ぬのならということはそこまで考えていませんでした。


わたしはその写真展をする前から、死ぬことについて考えることが度々ありました。死について哲学をしているわけではなく、ただぼんやりと死という考えが頭にあったということです。

福祉や看護などの世界には、「デス・エデュケーション」という概念があります。日本語訳では「死の準備教育」とされていて、「人間らしい死を迎えるにはどうするべきかという教育」についてのことです。


わたしたちは、生きることについてはたくさん考えさせられてきました。明るい未来について、将来のこと、いかにしてよく生きるか。
しかし、そこには必ず死がある。光があれば影がある。
わたしは影が好きです。写真を撮るときはいつも、影を探します。なぜ影が好きかというと、その分光が際立つからです。光の美しさを影が教えてくれます。
わたしが死ぬことについて考えるのは、これと同じことです。死ぬことについて考えるから、生きることがより尊く思える。死があるから生きようと思える。これってすごく大事なことな気がする。


死について話すとき、よく怒られたし悲しまれました。なんでそんなことを、そんな若さで言うのか。
これはわたしの配慮が足りなかったなと思います。でも、「若いんだからまだそんなこと考えなくていい」というのはいつまでも納得がいきません。
星野源の灯台という曲にこんな歌詞があります。

君は若くて良いねなんて
知らねえよカスが
もし僕が明日死んだら
それが一生なんだ

灯台/星野源


この曲を聴いたとき、本当にそうなんだよな〜と思いました。わたしたちはいつ死ぬかわからない。もちろん、年齢や持病などで生死のバランスは人それぞれだとは思いますが、明日わたしが絶対に生きている確証はどこにもない。


そして、わたしの大好きなドラマにはこんな言葉があります。

「死ぬのにいい人も悪い人もない。たまたま命を落とすんです。そして私たちはたまたま生きている。たまたま生きている私たちは死を忌まわしいものにしてはいけないんです」

アンナチュラル第8話より

これまた本当にそうだな〜、と思いました。わたしたちはたまたま生きている、だから死を忌まわしいものにしてはいけない。それは、死について隠すことよりもずっと正しいことのような気がしました。



先月、とある人のセッションに行きました。それは、話すことと聞くことについてのセッションで、モヤモヤを話す会というもの。
自分の今後の職業的にも話すことや聞くことというのは重要になるもので、面白そうだなと思ったので行ってみました。
そこには20代くらいの男性2人と、わたしと、なんと10歳の女の子とその母親がいました。
その女の子は平然とそのセッションにいたのですが、平然すぎてもはや異様でした。
そこでは話すことや聞くことから派生していき、「死ぬことについてもっとオープンに話せるようになりたい」という話題になりました。

セッションが進み、主催者の方がその女の子に話をふるとずっと黙っていたその子はすらすら、「ずっと死にたいと思っている」ということを話し始めました。
わたしはかなりびっくりしました。10歳でなにがあったんだろうと不安に思いました。
話を聞くと、どうやらいじめられているとか家庭不和とかではなく(多分)、漠然と死について考えている様子。「たまたま生きているだけで、死ねるなら死んでもいいと思っている」「特別自分に価値があるとも思わない」ということを当たり前みたいに話してくれました。まるで今日学校であったことを報告するみたいに、淡々と当たり前に、つまらなそうに。


その話を横で聞いていたお母さんは涙を流していました。それを見てわたしも泣いてしまいました。こんな小さな子が、自分の愛しい子どもが、そんなことを言っていたらそりゃ涙が出ます。
そのときわたしは、初めて「死について語られる側」になりました。自分が死について語ったとき、語られた側はこういう感情だったんだと初めて体験できました。苦しいものなんだと知りました。

でもわたしはその少女の気持ちも痛いほどわかる。だから、わたしたちはその子と一緒に死ぬことについて話しました。本当にいい時間だった。その子は帰り際とても満足そうでした。「死ぬことについて話せる場所が普段あまりなかったから、こういう話ができてうれしい」と言ってくれ、わたしたちは友だちになりました。


死についてオープンに話せるというのはすごく安心できることです。それはある意味、生きる希望に満ちている。このセッションは、そういう機会や場所が、この世には多くあるべきなんじゃないかしら、と思う瞬間でした。



わたしは大学で所属しているゼミが精神ゼミです。精神疾患などについて学ぶゼミ。実際、実習では精神病院などにも行って心が死の瀬戸際に追いやられている/いた人と関わってきたし、精神保健福祉士という資格を取ろうと思っています。
なので、自分のこの「死を過度に忌まわしく思わない」という考えは危ういのかしら、と思ったこともありました。
もしクライエントが「死にたい」と言ったとき、わたしは強く否定できない。もちろん専門家として死の選択は止めるだろうし、生きるサポートを全力でしたいと思います。ただ、その発言はあなたが死について一生懸命考えた結果だから、他人が止めるのはお門違いなんじゃないかと思ってしまう。それは精神保健福祉士として正しいのか。


でも、そういうのを一旦取っ払って、「死なないでほしい」とは思います。家族も、友人も、恋人も、クライエントも、10歳の少女も。死んだら悲しい。
死が脳内をよぎること、実行してしまいたくなること。それを否定することはわたしには難しい。でも、わたしはあなたに生きていてほしい。それはエゴです。だから、最後に決めるのはあなたでいい。ただ、生きていてほしいとわたしは伝えたい。それだけでいいのかもしれないと最近は思います。



死についての考えを思いつくままに書いたらこんな文量になってしまったし、全然まとまりもなくなってしまいました。でもわたしはこういう話をどこかで、たまにしたかった。それが悪いことでもこそこそ隠れてしなきゃいけないことでもないんじゃないかって言いたくて、書いてみました。あんまりポップに書けなかった気がするけれど、読んでくれた人、ありがとう...。


みなさんは明日もし死ぬならどうするのか、気になるな〜。坂本龍一さんみたいに葬式で流すプレイリストとか、考え合うのもきっと楽しい。
そんなことを考えながら、明日も生きていこうね。


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