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「いること」と生産性(東畑開人『居るのはつらいよ』レビュー)

 僕は、一応ソーシャルワーカーのはしくれなので、そのような仕事の関連本として東畑開人『居るのはつらいよ』(2019、医学書院)を読んだ。ここ一ヶ月ほど、ずっとヤジ排除のことで取材対応したり、デモの準備などをしてきたが、それらとは無関係なこの本を読んで気分転換できたことは、心の救いであった。
 しかし、なぜかそれまで考えていたことと似たような話(つまり、日本社会における不自由の話)に合流したのではないか、という気持ちもある。この記事を最後まで読んでもらえたら、なんとなく意味がわかるかもしれないし、そうでもないかもしれない……(前置きが長いのでカット)

あらすじ

 京大卒の心理士ハカセこと東畑が、沖縄にある「ふしぎの国のデイケア」に迷い込み、働いた経験を元に、エッセイとしてまとめた本。

 京都大学で博士号を取った著者の東畑は、研究で得た臨床心理の知見を現場で活かしたいと思い、仕事を探す。しかし、知っている人は知っていると思うが、現代日本における心理士の給料というのはすこぶる安い。時給千円前後のアルバイトのような仕事も少なくない。せっかく博士号まで取って、さすがにその仕事では……ということになる。しかも、東畑には妻と子もいるのだから、なんでも良いということにもならない。そして、様々な仕事を探しているうちに、沖縄のデイケアの仕事を見つける。どうやら給料も良い。

 そして、入り込んだ場所は「ふしぎの国のデイケア」だった。デイケアとは、精神障害者が日中過ごす場所であり、そこへの通所や人との関わりを通して治療を進め、社会復帰を目指す場所、ということになっている。

 そこで、東畑にはカウンセラーとしての仕事(つまり相談室でのカウンセリング業務)が与えられるのだが、それはあくまで一部。それ以外の時間は、他のメンバー(当事者)と一緒にデイケアスペースで過ごすことになる。特定のプログラムがある時間はまだ良い。メンバーと一緒に野球をする、卓球をする、遠足に行く……これは、「すること」がわかりやすい場面である。しかし、居場所型のデイケアにおいては、それ以外の時間もまた長い。特にやることがない。スタッフも、メンバーも「ただ、いる、だけ」。会話が弾むとも限らない。居るのはつらいよ、である。

「いること」の意味

 積極的にカウンセリングをしたいと思ってきた東畑はもちろんだが、それ以外のスタッフにあっても心のなかで疑問が生じてしまう。「これでいいのか?」ということだ。

 一方、この「ただ、いる、だけ」について、様々な障害を抱える精神障害者にとっては、意味合いが変わってくる。人との適切な距離感がつかめず、ややもすると自身の妄想や幻聴に囚われてしまう人々にとって、そもそも他の人と「いること」というのは簡単なことではない。実際、ちょっとしたきっかけで通えなくなってしまう人もいる。
 かれらにとって、「いる」だけでも大変なことであるし、そして、それを支える場がデイケアでもあるのだ。何を生み出しているのかわからない、治療とか効率性といったものとは無縁に見える空間で、しかしケアが行われ、ケアが生じている。この逆説。

 漫然と続く円環のような毎日の中で、東畑は「ケアとはなにか」についてひたすら考える。特に、能動性・積極性・介入性を持って行われる「セラピー」(カウンセリングも主にはこちらだ)と、その場において意識されず行われ、または生起する(いわば中動態的な)「ケア」とが対比的に語られている。
 この、ケアそのものについての分析も非常に興味深いのだが、個人的に興味深かったのは、後半に記述されている内容である。そこでは、永遠に続くかのように思える、「ただ、いる、だけ」の居場所型デイケアの、その「いる」を脅かす力について考察されている。

(ちなみに、ここから先はこの本の「佳境」とも言える内容で、一言で言えばネタバレでもあるので、実際に読もうと思っている人は読まないほうがよいかも)

「いること」を脅かすもの

 そこでは、「ただ、いる、だけ」を脅かす者として、(ネオリベラリズム的)「会計」の存在が名指しされる。東畑は、人類学者であるストラザーンの「会計監査文化」という概念などを引用しながら、その課題を浮き彫りにしていく。この資本主義、市場原理主義社会で生きる我々は、「ただ、いる、だけ」に価値を見出すことが容易ではない。ふしぎの国に迷い込んだ東畑が最初に出会った葛藤もそこにある。積極的になにか治療的な行為をしているわけではなく、ただぼんやりと「いるだけ」。そんな自分の日常に給与が支払われる。となると、「え、これでいいのか」となるわけである。「生産(性)とか、考えなくていいんですか」と。

 もちろん、デイケアには通所する当事者の「治療(セラピー)」ないしは「社会復帰の支援」という名目はある。実際、そのデイケアへの通所を通して調子が良くなり、「通過していく」ものもいるが、しかし少なからぬメンバーはずっと同じ場所に通い続けることになる。ほとんど終の棲家だ。「ただ、いる、だけ」が延々と続く。
 そして、そのデイケアにあっても、単なる慈善事業やボランティアとして行われているわけではないから、費用がかかる。そのために健康保険からお金が支払われたり、あるいは生活保護費が充てられるわけである。そして、公的資金が投入されるからには、名目が必要になる。治療だ。

 だから、時間の止まったアジールのような場所にあっても、いつの間にか「ただ、いる、だけ」ではなく、「効率的に、効果的に、いる(そして治す)」ということが求められるようになる。国としても、居場所型のデイケアにおいて、利用期間が長い患者については、診療報酬を削減するような動きが進んでいる。だから、「より効果的な」働きかけを行う場として、デイケアが変わろうとしている。

 上述の通り、こうした積極性や能動性を伴った治療は「セラピー」と呼ばれるが、こちらは市場原理と相性が良い。計画があり、行動があり、そして変化や改善があるからだ。「生産性」とかいう言葉で表現し、計測することもできるかもしれない。

 それに対してケアの原理は、市場原理とは相性が悪い。そもそもが空間的(物理的な空間だけでなく、人間関係の相互作用などが可能にする、居やすい空間)なものであるために、効果や意味がわかりづらい。いや、会計係(財務省や役所などと置き換えても良い)にとってわかりやすいように「市場価値」を説明することも可能なのかもしれないが、その時、デイケアの場にあったはずのなにか(ケアの複雑性)は崩れ去ってしまう。

 また、この「会計」という脅威が支援者の側にも入り込むことによって、ケアを成り立たせる土台は侵食されていく。たとえば、収益性という観点から「いる」を確保しようとすると(つまり、利益が出るようにデイケアを経営する方向に突き進めば)、必然的に効果的で効率的な、「いる」への囲い込みが起こり、アジール(避難所)はアサイラム(収容所)に頽落していく。「ただ、いる、だけ」が保障されていたはずのデイケアが、いつの間にか「生産性」の無間地獄に引きずり込まれていくのだ。

既視感

 こうした内容が共感を呼ぶのは、僕たちにとってこれらが決して他人事ではないからである。現代社会に生きる僕たちは、「ただ、いる、だけ」をゆるされていない。仕事をしていても、学校(大学でも高校でも)にいても、家庭にいても、落ち着かない。街を歩いていても、そこには「生産性」の原理が忍び寄り、僕らの肩をたたき、「ただ、いる」を脅かす。消費者になるか、労働者になるか、主婦になるか。何でも良いが、何者でもなく、役割もなく「ただ、いる」ことができない。いや、何者かになったところで、絶え間ない生産性と効率性のゲームから降りることができない。

 「公共」という言葉も、今やこの効率化の原理によってどんどん変化している。公共機関や公共空間でも民営化や指定管理化が進み、働く人も派遣や期間雇用の契約職員に切り替えることで、人件費のカットが推進される。公園や水道や山林の管理権が企業に売り払われ、ただの金儲けの道具になる。そして、当初の目的だったはずの「税金の削減」も、浮いた部分が企業の収益として消えていく。街では、ホームレスが横になる場所すら奪われ、ちょっとした隙間にも「◯◯禁止」の張り紙と看板が乱立していく。「ただ、いる、だけ」は、「価値がない」と見なされ、どんどん制限されていく。

 「無駄をなくしましょう」「生産性を上げましょう」という名目を持った改革は、新しい無駄と圧迫感を生み、僕たちの生活に機能不全を与えていく。物事が自由で透明になっているような気がする一方で、言葉にできない息苦しさや生きづらさが膨らんでいく。
 さもなくば、直接に「生産性の欠如」によって排除され、抹殺される日が来るのかもしれない。すさまじい既視感があるこの話は、もちろん仮定ではない。

(上記のストラザーンの話もそうだが、参考文献に「アナーキスト人類学者」デヴィッド・グレーバーの『官僚性のユートピア』が入っていたことで、興奮して書いてしまった。「居るのはつらいよ」本文の内容を逸脱している可能性がある)

 僕の働いている職場は、よくわからない自由度が高く、それによって柔軟性の高い支援や関わりができている(同時に、職員にとっても働きやすい雰囲気がある)ような気もするが、物事を透明にし、そして効率化しようとする社会の中で、それがいつまで続くのかわからない。気付かないうちに、アサイラムとしての要素を備えていないとも限らない。

 また、一歩外に出れば、生産性で人間を選別し、「余計なことをするな」という圧力が無言のうちに飛び交っている。僕たちが外を歩いても、誰とも出会えないのには、理由がある。言いたいことの一つも言えないのには、理由がある。東畑は、「ふしぎの国のデイケア」という一見特殊な場所から、しかしそれにとどまらない社会の姿を描写している。神は常に細部に宿るのだ。

(ちなみに、このレビューでは特に触れなかったが、この本のジェンダーに関する描写はわりときもい。わざとやっているのかもしれないが、意図がよくわからない部分もあった)

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大杉 雅栄

大学生時代から社会運動に興味を持って、活動したりしなかったり。現在は、アラサーの福祉系労働者(ソーシャルワーカー)。アナーキストワナビー。最近は、安倍晋三にヤジを飛ばして警察に強制排除されたことで知られている(?)

アナーキストになれなかった人たちのために

本当はもっとハードコアに生きたい気もする、福祉労働者が僕です。
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