夢の中で夢を見る【戯言】

 目がしばしばする。頭がぼんやり熱い。そういう時はいちど執筆を中断する。そうして本を開く。活字を追いかける。目の駆使。なにも状況が変わっていない。変わっていないので睡眠をとる。

 ニャッキ!のぬいぐるみに枕の任務をお願いして、横になる。横になってアラームをセット。ぴったり一時間後にせってい。ずいぶん前にスマホを小田急線の或る駅に忘れてきたことを思い出す。スマホが手元に無いことでいちばん狼狽したのは、間違いなく、アラーム機能。アラームがない。それは私にとってあらゆる遅延に繋がりうる。得る。アラーム機能の次に思い浮かんだのは、セキュリティ。セキュリティって大切だ。

 と、うとうとし始める。

 さて。ここでまた夢を見る。最近よく夢を見る。というよりも夢を記憶している。前に読んだ夢科学の御本によると、眠っている間に誰しも一度は夢を見ている、とのこと。嘘か真か。それはよくわからない。わからないのは私がその方面の学者ではないからである。

 最近よく夢を見る、というよりも夢を見るようにしている意識的にそのように意識している。私の夢はたまにすごく速い。速度なのか、場面なのか、なにが速いのはわからない。わからないが10分の仮眠で10のストーリーを見ることがある。場面だけの場合もあるのだけれど、ほとんどストーリーとして完結している。途中で終わるものもあるけれど。

 10分に10個のストーリーの展開が実際にあるとしたら・・・

 私たちの頭の中ってどうなっているのだろう? すみません、巻き込みました。私の、頭の中いったいどうなっているのだろう。なんだか怖い。恐ろしい。

 稀に行燈のような色合いの夢を見る。そういう夢は光の加減が幻想的で好き。橙の色はやさしい。目にもやさしい。夢を見ると頭がスッキリしないと知人に聞いた。が、私個人は割とスッキリしている。

 夢の中で夢を見ることもしばしば。これは夢を、夢と認識していることが多いためかもしれない。そうして今日の夕刻に金縛りにあった。金縛りは脳科学でその多くが検証されている化学現象である。と言い切りたいところだが、一概にそうとも言えないところもある。とにかく、その金縛りの中で私は「ア。これは夢だ」と認識することにした。あるいは強制的にそう仕向けた。いくら手足を動かそうとしても一向に動かない。硬直。心臓だけがバクバク高鳴る。

 私は夢の中で「金縛りから解ける夢」を見るように試みた。するとズズズ、ズズズ、と微かながら手を動かすことに成功。そうして肉球に触れた。肉球に? それは私の今いっしょに暮しているスコティッシュフォールドとは別の、もっとかたい、ざらりとした肉球であった。ああ!これは! 

ああこれは!

 なんということか!2年前に亡くなってしまったポメラニアンの手の感触ではないか! 真相はいい。真相はこの場合にまったく必要ない。とにかくそれが夢であろうが脳のズレ(錯覚)であろうが関係ない。
 ただ、ひたすら、幸せ。それだけ。ありがとう。あなたのおかげで金縛りがホロリ解けたよ。そうして目を醒ますとそこはいつもと変わらぬ六畳間。スコティッシュフォールドがはるか遠くの絨毯でのびのび伸びている。


 何年も前のこと。

 外国の子供にナイフで脇腹を刺されたことがある。しかも場面は手術室。当時は私の脳内もモノクロの部分とカラーの部分とに岐れていた。もちろん夢の話である。手術室や時計のかかった背景はモノクロなのに対し、男の子のブロンドの髪の毛(くせ毛だった)とブルーの瞳(睫毛はブロンドだった)の2点のみが鮮明に色を映し出していた。

 しかもこの夢ときたら、ほんとうに、痛かった。脇腹が痛かった。というよりも「熱い」のだ。痛さよりも熱さが増していた。なるほど。ナイフで刺されると熱いのか、と当時高校一年生だった私はこの事実を学校に行き、ともだちに話した。彼女たちはしきりに手をぱぱぱんぱんと叩き、大爆笑。大爆笑のあとにこう言った。

「それ、飼い犬に噛まれてんじゃん?」

 飼い犬に、噛まれる、ねえ。飼い犬といえば、もこもこのポメラニアンがひとり居たわけだが、彼はかれで、私の顔面を踏みつけるが最後、私の頭の上で眠っていたのだ。まるまるまるまって寝息を立てていたのだ。

 そんな飼い犬が脇腹、噛むかね? がむって噛むかね? それで脇腹噛んだとしても、あの熱気はどう表現するのか。しないのか。真相はよくわからない。なぜならそれは夢だから。夢の真相を探るのは相当骨の折れる作業に違いない。やりたくない。気にはなるけれど。

 とにかく夢を見るのは楽しい。ときに現実よりもスリリングだ。ジェットコースターでそのまま空を飛べば強風を感じる。暴風を顔面に。風はたまに冷たいし、たまに生ぬるい。なんだかこの前もへんてこな夢を見た。そこは炎がすごかったから背景は灰色に塗れていた。煤の匂いもする。こういう夢はこわい。

 先週はまっくらに停電した大浴場のひとコマ。しかも浴槽よりなぜか母上がぬるっと現われた。恐怖にシャワーヘッド落っことす。シャワーの流れる音と浴槽の閑散具合がなんとも奇妙。しかも反対側の脱衣所には明かりが灯っている。こうこうと灯っている。が、なぜかそこに見知らぬ女の子。しかも体育座り。こわい。とても怖い。

 ・・・といった具合に、私の見る夢には背景と情景とが鮮明に描かれる。しかも嗅覚も聴覚も、体感もある。味覚はない。現実に私は食に疎い。美味しいものは大好き。だけれど極端な話、どれも美味しい。平等に皆うまい。味覚の上等の人が羨ましい。ファミリーマートと高級レストランの味があまり大差ない・・・気がする。こればっかりはいくら気をつけてもよくわからない。ファミリーマートでなく、ファミリーレストラン。

 たらたらと綴ってしまい申し訳ない気持ちに、今まさにパソコンの画面に向かって頭をさげている。なにを戯言申したかったというと、それは「夢が楽しい」こと、それから「夢はやはり自分の体験に基づいている」ということの2つきり。

 体験がなければ、暑さや寒さはわからない。風を頬に感じることも、痛い感覚も当然わからない。夢は実体験をもとにカタチをつくる、のではあるまいか。一昨日に見た夢は『灰原 哀』ちゃんが主役の、かの名探偵が脇役のストーリーであった。これはこれで視点が変わってなかなか面白く、しかし、そういうキャラクラーもやはり現実世界(二次元)に存在している。

 たまに出てくる人物も全員それ。小説の登場人物たちが夢に出て来てくれたら、ああ、どれほど有難いか。そう。なにを隠そう、私はキャラクラーを形成するのが苦手のよう。そこで先日読んだ『小説家の作り方』という本。こちらかなり役に立った。とかなんとか。なんて上から目線なもの言いなのだろう。すみません。重宝させていただきます。本当に楽しく読ませていただいたのです。勉強させていただいたのです。

 谷崎潤一郎氏の『文章読本』にも「とにかく読め」と書いてある。「何度も読め」と書いてある。その通りにする。

 また先日お借りした『論語と算盤』には、勉強を止めなければ失敗してもチャンスが巡ってきたときに役に立つ・・・というようなことが記されていた。この書籍には論証が多く引用されているために、こういう言葉はとても心に響いた。心を丈夫にしてくれた。希望をもたせてくれた。渋沢栄一氏に感謝である。

 なぜか急に本の話をしてしまった。

 話が逸れに逸れたが、これは夢の話である。もしくは夢の中で夢を見ているのかもしれない。そうしてこういう拙い文章を綴った可能性もある。夢と現実の境界線は曖昧で、はっきりした線引きがないのだから、やはり、この文章も、夢の中の出来事であるのかもしれない。なんだか寒くなってきた。頬をつねる。痛い。あれ。夢の中で頬をつねったら…それは果たして痛いのだろうか? 試してみたことがない。今度それをぜひ試してみようと思う。

戯言をお聞きくださった皆さま。
感謝カンゲキ雨嵐にございます。

                          2020 05 01



 


 

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