31/08/2020:『But She Cries』

朝からずっと曇っていたもんだから、てっきり日中に雨でも降ったかと思ったけど実はそうではなかった。ただ厚手の雲に日が落ちる前の静けさが重なって、それでいつもよりも暗く感じたから、アスファルトが濡れているように見えただけだった。

「夜ご飯、どうしようかな。」

と、起き上がってキッチンの冷蔵庫を開ける。もやし、豚バラ、納豆、キムチ。昨日と同じだけど、このレギュラーメンバーに裏切られたことはないから、今日もこれで行こうと思う。

「でも、ちょっとビールのみたいな。そして、そんな時に限ってないんだよな。」

重い腰を上げ、買いに行こう。僕は上着を一枚羽織って、キーケースと財布を取るとキャンパス地のオールドスクールを履いた。階段を2階分降りた駐輪場、黒い愛車にまたがる。

駅前のスーパーまではずっと下り坂だから楽だ。

僕はペダルを漕がずに住宅街を抜けた。

                  ・・・

スーパーは駅の西口の方にあって、僕の家は東口側だったから手前で高架下をくぐる必要がある。フェンスに囲まれた月極駐輪場を横切って反対側へ。するとすぐに寂れたカレー屋があるのだが、僕はそれが開いているのを見たことがなかった。コンセントが店内から伸びたキャッシャー付きの立看板に接続されていて、そこには「カレー」とだけ書かれている。電源は入っていなかった。

家を出てから5分くらいなのに、さっきよりも随分と空が暗く感じる。街灯の明かりも点いていた。向こうから自転車が一台ジャージャーと回転式ライトの音を鳴らしながら近づいて来て、そしてすれ違った。

自転車をスーパーの駐輪場に停める。いつも27番が空いているか見る。中央よりも少し入り口寄りの、下の列。というだけで他に理由はない。

真っ白な蛍光灯に包まれた店内は煌々と明るい。野菜、果物コーナーがいつも入り口近くにあって、でも、どうせ6本入りパックしか買わないから、籠も持たずそのまま進む。

「久々にビールにしよう。」

と、心でつぶやきながら、発泡酒と第3のビールをやり過ごした。

慎ましい学生の、ささやかな贅沢。先週キャンセルしたコンパの分を考えても十分にお釣りがくるはず。迷わずに好きな銘柄を選ぶと最短コースでレジへと向かった。

「レジ袋ご利用ですか?」

僕の母と同じくらいの年齢だろうか。パートの女性が訊いて来た。

「いえ、そのままで大丈夫です。」

と、笑顔で断った。そういえば、実家にも最近連絡してないことを思い出す。

外に出るともう完全に夜になっていた。1日を部屋の中で過ごしていても同じように時間が過ぎることや、それによって生まれる非生産性への罪悪感みたいなものが、改めて胸に広がった。でも、今日は研究計画書も書いたし、試験課題も推敲し直した。

生産、というのは社会本位で見ると大きくある必要があるかもしれないが、自分本位で考えれば、それはほんの些細なことでもいい。責めるも褒めるもない。ただ、やったかやらないか、それだけが1日の終わりを決めるんだ、と思う。

自転車のカゴにビールを入れて、そのまま駐輪場を出る。

ホームには電車が停まっているようで、高架下をくぐる時に発車のアナウンスが小さく聞こえた。

                ・・・

同じルートを通って家まで帰る。

カレー屋は相変わらず暗いままだった。高架下の駐輪場は蛍光灯が小さく点灯していたけど、あまりよく見えない。でも、停まっている自転車の数は同じくらいだった気がする。

上り坂を立ち漕ぎで進んでいく。

カーディガンが後ろに膨れて風の抵抗を受けると、僕はもっと強くペダルを踏み込まなきゃならなくて、だから同じようにハンドルを強く握って肩に力を入れた。

駐輪場に自転車をねじ込んで、階段を駆け上がる。少し息が上がったままドアを開けて、ビールを冷蔵庫へと入れた。

キーケースを靴箱の上に投げ置く。

「シャワー浴びてからにしようか。」

僕はカーディガンを押入れのハンガーにかけて、ジャージとTシャツを脱ぎ捨てた。下着はそのまま洗濯機へ投げ込むことにした。

熱めの温度に設定したお湯を出してシャワーカーテンを引くと、すぐにユニットバスは蒸気に包まれた。

「今日は家から出てないんだけどなー。」

と、言いながらもシャンプーで髪を洗い、洗顔も済ませた。サクッと体を洗って、もうお湯を止める。温度を高くしている分、時間は短くても体はしっかりあったまるという理論を実践し続けて3年半が経とうとしていた。そして、僕は今もその理論を信じていた。

スポーツタオルを被ったまま冷蔵庫を開けた。そしてビールを一緒に冷やしておいたグラスと取り出して、注ぐ。

炬燵テーブルの座椅子に座って、一口飲んだ。

「家から出てないのに、うまい。」

と、思った。濃くてしっかりした苦味が、冷たさと競合するようにして喉を流れた。扁桃腺辺りに残った味の厚みを噛みしめる。

何気なくケータイを見ると、不在着信が一件あった。海外からだった。

電話番号が表示されていないからかけ直すことができない。僕は気にせずにそのままにしてグラスを半分くらいまで空けると、干しっぱなしの下着をカーテンレールから取って履いた。

外は真っ暗で、狭い住宅街の路地には車もバイクも通らない。まるでスエード生地を品よく被せたみたいに静かだった。

その時、電話が鳴った。海外通話だ。

「はい、もしもし。」

「久々じゃない。ごめん、今、大丈夫?」

聞き慣れていた声。

半年前に留学へ行った彼女には、最後、しっかりとあいさつをしないままだった。ケジメをつけるほどの関係性でもない気がしたし、また、つけることで彼女にとってその後プラスに作用するのかどうか不安だったから。

いや、でも本当は違う。結局は僕が横着したんだと思う。

きっと怖かったのだ。

何が?それはわからない。焦燥感と劣等感は環境変化の節目に必ず僕らを包み込んで、そこから抜け出すには一人ではあまりにも厳しすぎる。だけど、最後にあは一人で抜け出さなければいけない。

だって、そうやって人は生きていくんだと思うから。

「久々。大丈夫。今パソコン電源入れるから、そっちで話そうか。」

「うん、ありがとう。助かる。」

「おう。だから、ちょっと待って。それに服も着たい。」

「何それ。それは早くして。」

一旦電話を切る。ベッドに投げたジャージをまた履いて、迷った末にTシャツは新しいものを着た。

パソコンを立ち上げアプリを開くと、オンラインになった彼女のアイコンが少し経ってから表示された。

受話器ボタンを押す。

ビールを一口飲んで、乾いた口を濡らす。

今日何もしていない分、ゆっくり話を聞こうと思った。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

kZmで『But She Cries』。


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