24/07/2020:『All The World Is Green』

地下にあるバーは、タバコの煙が少し籠っている。加えて床が古い板張りだから、その独特の匂いもあって、いつも行くたびに服がバーの匂いになった。

階段を一回折り返して下る。白い壁には色々な写真が飾られている。でも、僕が一番好きなのは、壁に直接描かれた絵だ。カウンターから階段を見て、ちょうどお客さんが降りてくるところに描かれているものだから、自然と親しみが湧いていたのだ。

数年に一度くる絵描きさんが描いていったものらしい。

どこか知らない国の海岸、寂れた漁村の絵で、画角の端っこには、もう存在しない死言語で何か格言のようなものが添えてある。真っ白い壁がそこだけ色を帯びて、頼りなく生える草の緑や堅い山肌の黄色、深い海の青が自然とイメージできた。

その絵描きさんは僕がバイトをし始めてからほんの数日経った頃に一度来たことがあって、カウンターに座ると、

「ウィスキーソーダ、もらえるかな。パリッとした薄いグラスに、大きめの氷で。」

と、注文をくれた。

僕はまだ勝手にドリンクを作ることができなかったから、マスターにお願いをした。

グラスをカウンターに置く。棚からウィスキーを選んで隣に並べる。しゃがんで開けた冷凍庫から氷を選んで、小さめのバケツに入れる。ついでに355ml瓶に入ったソーダを冷蔵庫から引き抜き、これら二つはカウンタの上ではなく、席からは見えな内側の作業台へと置いておく。

グラスの下の部分を優しく二本の指で掴むと、反対の手でトングを握って氷を添えるように入れる。「コツン」と底に当たる音が心地よい。それをカウンターにおいて、今度は氷の上にソーダを少しかける。冷凍庫で纏った氷の粒や、白く乾いた膜をリンスするためだ。これをするだけで、飲み口に一体感が生まれる。

軽くステアして、そのままソーダを捨てる。温度が下がったグラスは薄っすらと白く染まり、それはウィスキーを注ぐ合図になる。氷の四方を均等に流れ落ちるように、優しく丁寧に注ぐ。ボトルの口からドアをノックするような音がこぼれる。この時、ステアはしない。余計に手を加えると、水っぽくバラけた味になるからだ。そして、ソーダの瓶を持ち傾けると、直接ウィスキーに落ちるように注いでいく。

グラスの中に浮かぶ氷と流れるソーダ。それは大きな氷山が浮かぶ北の海で、激しい波と強い風が、海域に対流を生み出していくようだった。対流を整えるようにゆっくりと一度だけ氷を持ち上げる。グラスの壁に細かい均一の泡が張り付く。炭酸の息がしっかりと生きている証拠だ。

最後、ミツバチが花の周りを飛び交うように、そっと遠くからレモンピールをふりかける。

「どうぞ。久しぶり。」

マスターが差し出すウィスキーソーダを見つめる。

カウンターのライトに照らされて、氷が少し動いた。

                 ・・・

「もしが身体が動かなくなったら、僕は絵を描き続ける自信なんかないよ。」

目の前には果てしなく海が広がっていて、その先には大陸があるのだろうがもちろん見えることはない。しかし、突き上げてくる風が、何度もなんども確認してくるかのように、ずっと向こうには大陸があることを教えてくれている。

「口で筆を咥えたり、あるいは足を使ったり。僕はそこまでしてでも描こうという気持ちが湧かないんだ。今まで何年も世界をぐるぐる回って、幾枚も絵を描いてきた。身を削るような時期もあったし、自分でもよく分からないまま筆を走らせていた頃もあったと思う。絵を描くことは愛しているさ。僕は全てを捧げてきたからね。家も車も、家族でさえも、僕は持とうとしなかった。いや、持とうとしなかったわけではない。努力したこともある。でも、最終的には選ばなかっただけ。そう、僕はそういう人生を選択してこなかっただけなんだ。」

周りには誰もいない。何軒かの家々があるだけの漁村。若者がいなくなり、全てが衰退した。住民は自分たちで必要な分以外に魚を取らなくなった。彼は、そのうちの一軒の老夫婦の家に居候していた。

そして、海に向かって1人、誰に語るでもなく、勝手に口が動いていた。

「選ばなかった人生を打ち消して、選んできた今の方で生きている訳だけど、僕に最終的に残るものは何だろうか。いつかは、どこかに落ち着かなければいけない。絵を描く描かない以前に、年老いた人間は1人では生きていけないから。この寂れた漁村の、村と同じくらい老いた住人たちは、きっと最後の1人になるまで、誰かが誰かを見送っていくのだろう。選択の問題ではない、順番の問題だ。そうして最後に残ったその1人は、誰にも見送られることもなく、この風の中で消えてなくなるんだ。」

絵の具がこびり付いた爪を見つめる。彼に残されたのはそれくらいだった。

                 ・・・

ウィスキーソーダはゆっくりとなくなっていった。マスターと絵描きさんは時折小さく笑いながら、昔の話や、人生で見てきたことの答え合せのような作業をしている。僕は少し距離をとって、グラスを磨いていた。

階段の方を見る。どこかにあるんだろう海岸が描かれている。小さな魚を細々と獲りながら慎ましく生活する住民たち。自然にも社会にも見放された景色。いつか本当になくなってしまって、もうこの絵の中でしか生き続けられない世界。

「マスター、お代わりもらえるかな。」

絵描きさんがグラスを前に差し出す。

「はい、もちろんです。」

マスターは先ほどと同じ作業に取り組む。同じ順番、同じスピード。何万回も繰り返してきた。それがマスターの選んできた方の生き方なんだろう。きっと、これ以上無いくらいまでに洗練されたその動作は、この先変わることはない。

そうやって、時が流れるだけ流れていくのだ。

絵描きさんがタバコに火をつける。僕は、近寄って灰皿をカウンターに置いた。

「すみません、あの絵に描かれている漁村なんですけど、」

「あぁ、あれはラフ画みたいなもので、実際のものは今、正にあの漁村で描いている途中なんだ。」

絵描きさんは、そうしてその漁村に吹く強い風と、残された住人たちの話をゆっくりと紡ぎ出した。

                 ・・・

それからしばらくの月日が経って、僕はマスターに代わってドリンクを作ることが多くなった。一方マスターは、ゆっくりとお客さんと話し込むことが多くなり、店で流れる時間もそれに合わせて、速度を落としていた。

僕は僕なりに、作業を洗練させ繰り返すことに尊さを見出していて、小さな喜びもそれに伴ってきている。

それ以降、絵描きさんには会っていない。

寂れた漁村の絵は、今も同じ場所にある。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

海に落ちたよ、君が僕の妻になったときに。

Tom Waitsで『ll The World Is Green』。



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