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なでと君むなしき空に消えにけん 2-1 杏子

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「こんにちは、神父さん」
私が声をかけると、神父さんは庭いじりの手を止めふりかえり、朗らかな笑みを浮かべた。
もちろん、子供の私に悟られまいと気を遣ってくれているのだろうけど、それでも、普段と変わらない笑顔を浮かべてくれたことに、私は内心安堵のため息をこぼした。
「こんにちは杏子(あんず)さん、学校お疲れ様です」
言いながら、神父さんはむくっと立ち上がる。そうすると、私はたちまち彼の影に覆われてしまった。
ふと神父さんを見上げれば、教会の屋根に掲げられた十字架がちょうど彼の頭のてっぺんからちょこんと突き出していて、なんだかそういう像みたいになっていた。
図体はプロレスラーみたいにでかいくせに、彼の瞳にはいつだって柔らかな光が灯っていて、笑った時にできる目尻のしわからは人のよさが滲み出ている。
だから私は彼のことを、トトロと呼んでいる。もちろん本人には内緒だけど。
「これ、食べますか?」
そう言いながら、神父さんは手に持ったブルーベリーの束を掲げてみせた。
それはこの町の子供たちの好物で、私も小さいころはこのブルーベリーを食べるためだけにここへきていた。この辺りにはちゃんと名物になるような料理もあるのだけど、私たちにとってはこれがふるさとの味になるのだろう、なんて思う。
「後でもらうー。ヘレナさんいる?」
「ええ、裏庭にいますよ」
「そか、ありがと!」
裏庭目指して歩き出した私を、神父さんが慌てた様子で呼び止めた。
「杏子さん、足元」
そう言われて見てみると、花壇と教会の壁に挟まれた裏庭へと続く小径が、これでもかというほどぬかるんでいた。
「朝から庭仕事をしていたものですから」
そういいながら、神父さんは困ったような笑みを浮かべた。
よくよく見てみれば、神父さんの服は至る所が泥まみれになっている。
色々察して肩をすくめて見せると、神父さんは申し訳なさそうに肩を落とした。
「花壇にだけまいてたつもりだったんですが・・・」

ぬかるんだ小径を、分厚い靴底を使って慎重に進んでいく。
少しぬけたところも含めて、私はあの神父さんが好きなのだけど、今日のように、いい加減にしてほしいと思うこと多々ある。
だって私が今履いてるのは、新品の、おろしたての、真っ白の、コンバースなのだから!
一昨日から晴れが続いたおかけで満を持しておろしたっていうのに。
犬のうんちの上を歩いてるみたいなねっとりした感触に苛立ちながら、布の部分に泥がつかないように神経をすり減らし、私はようやく裏庭へたどり着いた。
教会の影から抜け、強烈な西日に目をくらませながら、私はヘレナさんを探した。
「あ、ヘレナさん」
シスター・ヘレナは、裏庭の片隅で片手を腰に当てながら、思案顔でコスモスが咲く花壇に水をやっていた。放物線を描いた水の粒たちが西日に反射してきらきらと輝いている。よっぽど深く考え事をしているのか、水はひたすら同じ一角を濡らしていた。
このままでは裏庭も小径と同じ運命を辿ってしまうことは明らかで、だから止めないといけないのだけど、夕日に照らされた彼女の横顔があんまり綺麗だったから、私はしばらくその場で彼女のご尊顔を拝ませてもらうことにした。
ヘレナは洗礼名で、彼女は日本人だった。すっと通った鼻筋に切長の目、腰まで伸ばした艶やかな黒髪と色白の肌。年齢不詳の不思議な美しさをもつ彼女は、シスターというより、日本の妖怪のようだった。妖怪といっても、泉鏡花の小説に出てくるような怪しげな魅力をもったお姉さんの妖怪って感じ。

「突っ立って視姦してるだけでは、一生経っても望みのものは手に入りませんよ」

突然のことに、ぴくりと肩が震えた。ぞっとするほど冷たくて、優しい声。
ヘレナさんは視線を手元に固定したまま、面倒くさそうにそう言った。およそシスターの発言とは思えないようなことを平気で言ってしまえるところが、私は好きだ。
「和洋折衷って感じで絵になったから。目の保養的な?」
私は画家やカメラマンが漫画でよくやるように、手でフレームを作りながらシスター服をまとった美しき妖怪の周りをうろついてみせる。
「私に発情するのはかまいませんけど、それで結菜さんに恨まれるのは勘弁してほしいのですけど・・・」
「結菜は怒らないよ。だって私発情してないし」
「どうだか」
めんどくさそうに私の方へ視線をなげたヘレナさんは、妖艶な笑みを浮かべた。
その笑みに若干の侮蔑を感じ取った私が頬を膨らませると、ヘレナさんはふたたび手元に視線を戻してしまった。
「杏子さんが大人の関係を望むと言うのならそれでもいいですけど、私こう見えてもネコなんです。下手くそなあなたが私とそういう関係になりたいのなら、とても努力する必要があると思いますよ」
「別に下手じゃないし・・・。てかヘレナさん知らんでしょ」
あんまりからかわれたので、私はむすっとしながら花壇の端に座り込んだ。
ヘレナさんを知れば知るほど、この人は一体何を勘違いしてシスターなんかになったのだろうという私の疑問は強くなる一方だった。
そもそも、私とヘレナさんが仲良くなったのも、彼女のシスターとしてあるまじき性格のおかげだった。
小五の頃、私は同性の子を好きになったのだけど、それがクラスの男子にバレてしまってひどくからかわれたことがあった。
けどママに相談するのは恥ずかしく、何を思ったのか、私はここへ飛び込んでヘレナさんに泣きついたのだ。
私はまだ、とっても純粋だった。
だからそいつを一瞬で黙らせる方法としてヘレナさんが教えてくれたことを、そっくりそのまま、自分をからかった男子に向けてやってしまったのだ。

『うるせえな短小包茎野郎!皮むけてから出直してこい!』

私は意味を全く理解しないまま、一語一句忠実に再現し、最後に彼に向かって両手の中指を突き立ててみせた。これがとっておきの必殺であり、とどめだとヘレナさんに教わったからだ。
その場にいたほとんどの人間が、私の豹変ぶりに驚きながらも、意味がわからずただぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。ただ一人、一部始終を見ていた担任を除いては。先生の顔からみるみる血の気が引いていったのを、今でも覚えている。
その日、先生とママにこっぴどく叱られた代わりに、私はなんでも話すことのできる最高の親友兼お姉ちゃんを手に入れたのだった。
ついでに言えば、その日から私に歯向かう男子はいなくなり、優しく可憐でおとなしい少女だった私は、たちまちこの町のガキ大将に就任してしまったのだ。リサイタルを開こうものなら、町中の子供たちが集まってくるだろう・・・。
「だから、そのいやらしい目で見つめ続けても相手に不快感を与える以外は何も得るものはありませんよ」
「まだいってんのそれ」
口を尖らせ私がいうと、ヘレナさんはわざとらしくため息をついた。
「何か話したいことでもあるんですか?」
そう問いかけたヘレナさんの声音は、急に慈悲深いシスターのそれになっていた。
「あったけどもういいや」
「どうして?」
「からかうから」
「からかわれるほど愛されているんですから、いいじゃないですか」
「やだ」
「そうですか」
そう言って、ヘレナさんは再びコスモスの花へ水をやりはじめた。
緩やかに降る雨のような音だけが、しばらく響いていた。
ふとヘレナさんを見ると、さっきここへ来た時と同じように、気難しい顔でコスモスを見つめていた。
そこでようやく私ははっとした。
「ごめん、こんな時に」
少し気まずくなってしまったせいで、最後の方は私らしくもなくか細い声になってしまった。
「子供がそんなに気を遣わなくていいんですよ」
小さな子供を諭す時みたいに優しい声だった。
「別に子供じゃないけど・・・」
「あなたがつまらない大人だったら、もうここへは来ないはずでしょう?」
そう言って振り返ると、ヘレナさんはいたずらっぽく目を細めた。

続く

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