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ねこじた

「おい、君。一体どれだけ待たせれば気が済むんだ」

 威圧的なその声に、ウェイターがびくっとして、「只今お持ちします」と反射的に返答し、そそくさと厨房の方へ戻っていく。ウェイターの君が急いでもどうにもならないんだよね、大変だよね、と同じ飲食業界で働く私は同情したくなるが、英幸さんは「わかればいいんだ、わかれば」という風に小さな笑みを浮かべ、腕を組んでいる。
 彼はいつも強気だ。自分は間違っていない、という絶対の自信と態度には、付き合う前は人としての強さを感じていたのだけれど、最近は少し怖さと煩わしさを感じる。人間って勝手だなぁと思いながらも、「待たせた分、美味しい料理が来るといいね」なんて彼のご機嫌取りをする私。しかし、言葉とは裏腹に、お腹が鳴る。ぐぅ。人間って実に勝手だなぁ。


 大学の先輩の彼とは、共通の知人の紹介で知り合った。「端正なマスクと、逞しいボディ」と、まるでどこかの美容グッズの広告のような売り文句で私に彼を紹介した美鈴先輩は、「でも、ちょっと偉そうに見えちゃうところが玉にキズなんだけど。合わないと思ったらすぐ言ってね」とさりげなくやさしさを付け足した。でも、大きな失恋をしたばかりの当時の私には、そのやさしさはぼやけて伝わり、見かけ紳士風の彼が多少偉そうにしていても、それは頼もしさの付属品とばかりに全然気にできていなかった。

「僕は昔から君を知っていたんだよ。食堂で見かけて、可愛い子だなって思った記憶がある。だから、美鈴に紹介をお願いしたんだ」

 付き合ってもいない女性の名前を下の名前で呼ぶ男は危険だ、と美鈴先輩は言っていたけれど、その当時の私は誰かに必要とされるのが嬉しくて、まるで中世の世界の騎士のような彼と、3回目のデートで付き合うことを決めた。お姫様のような気分だったのだろう。完全に浮かれていた。

 魔法が解けてきたのは、付き合って1ヶ月目ぐらいだろうか。我ながら、割と早い。店員さんへの態度や、普段のやりとりで、その「偉そう感」が気になりだしたのだ。待ち合わせ時刻の2時間前に勝手に来て「もう着いたから早くおいで」と言われた時には、彼を中心にして回る地球が想像できた。その回っている地球のはじっこで、困惑している自分も。

「美味しかったね」

 早めのランチを終えた帰り道で、私は笑顔を創る。楽しいから笑うんじゃなくて、笑うから楽しいとはよく言ったものだ。自分を明るい気持ちにさせる時に、笑顔は心強い味方になる。

「待たせた分、ってやつか。確かに味はなかなか良かった」

 素直に美味しかったって言えばいいのに、と思ってしまう自分は意地が悪いのだろうか。

「裕子はこれから仕事だっけ?大変だな、年末なのに。いや、年末だからか」

 私の職場は駅から少し離れたコーヒーショップ。今日はお休みのはずだったけど、体調不良で急な欠員が出て、午後から出勤を頼まれたのだ。

「休みをしっかり休むのもプロの仕事のうちだよ」と彼に少し責められながらも、ランチの時間をずらしてもらい、私は出勤することを選んだ。

 今は彼との時間より、働いている方が気が楽だった。末期だな、と少し笑ってしまう。そのタイミングで、「いいかい、裕子。月末や年末といった末期には、ハプニングがつきものだから、気を付けなければならないよ」と彼が言葉を続けたので、ビックリしてしまう。


 その日もお店は混んでいて、慌ただしく時間は過ぎていった。私の仕事は主にカウンターでの接客業務。注文を取り、笑顔で渡す。最近はもっぱらホットコーヒーの注文が多い。寒い屋外から店内に入ってきた時の「あ、あったかーい」というお客様の反応が私は好きだ。さらに温かい飲み物を飲んだ時の、あのほっとした表情も。

 そんな話を、一度美鈴先輩のお家へ伺った際にしたら、一緒に居た旦那さんに、「じゃあ裕子ちゃんにとってコーヒーショップの店員さんはまさに天職なわけだ」と言われた。きょとんとした顔の私に、旦那さんは続けた。

「だって、ほっとしに来る場所だろ、コーヒーショップって」

 なるほど。そうかもしれないなと私はすぐに納得をした。そして、そう言われてからこのお仕事が更に楽しくなった。美鈴先輩の旦那さんも私の大学の先輩で、とっても変わった人なんだけど、その言葉に不思議な説得力のある人だった。英幸さんとは違う意味で。

 沢山のお客様をほっとさせるんだ。あれから、私はいつもそんな気持ちで働いている。お店の入り口に貼る自己紹介掲示のおすすめメニュー欄にも「ホットコーヒーでほっとしてくださいね」と書いて、店長に「駄洒落ですか。斬新ですね」と笑われた。そんな私がいるお店に、忙しさのピークが過ぎた夕方頃、一人の変わったお客様が現れた。

「あの、ホットコーヒーの大きいサイズ、ぬるめでお願いします」

 お客様がなんて言っているのかよくわからなくて、一瞬きょとんとしてしまった。晩年のジョンレノンのような丸メガネとよれよれのコートを着た彼が、ひどく申し訳無さそうに、もう一度少しゆっくりめに言う。

「ホットコーヒーを、ぬるめでお願いできますか?」

 ぬるめ?あ、ああ、ぬるめか。やっとその言葉を認識した私が「あ、はい。大丈夫ですよ」と言葉を紡いで準備をし、ぬるめのコーヒーを渡す。「お砂糖とミルクはどうされますか?」私も動揺して後出しになってしまった。「ブラックで大丈夫なんです」と、彼は言った。彼も動揺しているのだろうか。なんです、とはまた不思議な言い方だなと「ふふ」と笑ってしまった。まずい。

 目の前の彼は笑った私を見て、少し気まずそうにそそくさと奥の席へ行ってしまった。しかも、その席に座ってからのびくっとした背中で、一口目のコーヒーを飲んだ彼が「熱っ!」と反応したのがわかった。ああ、大失敗。お客様をほっとさせるはずの場所で、私は彼をほっとさせてあげられなかった。だいぶ悔いが残った。

 リベンジのチャンスはすぐに訪れた。二日後、また彼がお店に現れたのだ。

「あの、ホットコーヒーをぬるめでお願いします」

 よーし、今度こそピッタリの温度で出してやる。ほっとさせてやる。自信満々で出したぬるめのホットコーヒーだったが、やっぱり彼の背中は一口目でビクッと反応した。熱がっている。アイスコーヒーを頼めばいいのに、と少しだけ思ってしまったのは内緒だ。その次の来店の際は、私も勝負に出た。

「あの、ホットコーヒーをお願いします。えーと…」「ぬるめで、ですよね」

 笑顔と明るい口調を意識して言った。イメージは大衆食堂のおばちゃんだ。今にも世界平和を謳いそうな雰囲気を纏う彼は、目を丸くしたあと、少し笑顔になって、「はい、ぬるめでお願いします」と頭を少しだけ下げた。これでどうだと自信満々にぬるくして渡す。もはやこれはホットコーヒーとは呼ばないのではないか、とも思ったが、お客様が望むのだから仕方がない。

「おお、ちょうどいいです」

 一口目を飲んだ彼が、こっちを見て笑った。大成功。思わずガッツポーズをしてしまった。他のお客様から変な目で見られていたのを、あとで職場の同僚から報告されて知った。ま、まぁ、仕方がない。

 見事リベンジを果たしたのち、次に彼に会ったのは、駅前の別のコーヒーショップだった。休みの日に、私がそのお店で友達と待ち合わせをしていると、彼がカウンターで注文しているのが見えた。なぜだか少しだけ残念な、寂しい気持ちになった。彼がいつものホットじゃなくてアイスコーヒーを持ってこちらへ向かってくる時に、私は無意識に顔を逸らしたが、「あ」と言う彼の声でそちらを向いたら、目が合ってしまった。

「い、いやこれは、その」

 まるで浮気がバレたみたいにしどろもどろする彼が、可笑しかった。可笑しくて、つい偉そうに言ってしまった。「あら、本日はいつもとは違うコーヒーをご希望ですか?」

 

 そこから、私の友達の電車が遅延したこともあって、彼との話は予想外に弾んだ。

「基本的に、自然界に生きるすべての動物は猫舌なんですよ」

 彼は言い訳をするように言った。私は質問を浴びせる。

「犬も?」「犬も猫舌」「猫舌って不便じゃない?」「不便だけど、問題はない。…わけではないんです、実は」

 ホットコーヒーに苦しめられるほどの彼の猫舌ぶりはやっぱりすさまじく、語ってくれた失敗談は私に多くの笑顔をくれた。特に、小学校時代に給食の大きなおかずが熱くてなかなか食べられなくて、強面の学校の先生から「ふーふーしなさい」と怒られたという話はツボにハマってしまった。

 ひとしきり笑わせてもらったあと、「良いことは?逆に猫舌で、良かったことはある?」と聞いた私に、一瞬真面目な顔をしてから、彼は答えた。

「うーん、人に優しくなれること、かな。ほら、痛みや苦しみを知っていると、人に優しくなれる」

 予想外の答えに、適切な相槌はなんだろうと迷っている私を見て、彼は「あ、でも人の猫舌を心配したことは一度もないです」と冗談っぽく言った。これが、やさしさというものか。

 その後も問答は続き、彼がジョンレノンではなく、本屋の店員だということと歳が同じだということまでわかったところで、「もうすぐ着くよー」と友達から連絡が来た。話に切りをつけるのと半ば冗談のつもりで、私は最後の質問を投げかけた。

「で、今日はなんでうちじゃなくてこちらに?」

 これが本命の質問ですよ、という具合に身を乗り出して聞いてみた。彼は一瞬戸惑いを見せたものの、とても自然な感じで、さも当たり前のことを言うかのように答えた。

「あなたが居なかったから」

 私の頭の中でその予想外の言葉がリフレインする。一瞬の間のあと、彼は我に帰ったように早口で理由をいくつか並べていたけれど、全然耳に入ってこなかった。私の頭の中では、さっきの言葉が初対面のあの日の言葉と混じって、繰り返し繰り返し響いていた。理由はね、簡単ですよ。頭の中の彼が笑う。それはね、あなたが居なかったから、なんです。



「私に初めて会った時も、しどろもどろしてたもんね」

 出会った日を思い出しながら私が言う。隣のあなたはまだ緊張している。二人で私の両親に挨拶に行った帰り道だった。

「仕方ないじゃないか、誰だっておかしくなるもんだよ、きっと」

 挨拶の場。あまりの緊張とあまりに熱いお茶のせいで、あなたは「僕が裕子さんを幸せにします」と言う大事な場面において、「僕を裕子さんが幸せにします」と発言する大きなミスを犯した。その場に居る誰もがきょとんとする事態。結局、そのおかげであなたが良い人ということが私の両親にも伝わり、その会は和気あいあいとしたものになったのだけれど。

「幸せにしてあげようか、私が」

 二の腕にしがみつき、笑顔でわざと言ってみる。困った顔をしながら、あなたがボソボソと小さく言う。

「僕が幸せにするから大丈夫」

 私は更に思い出の言葉を追加する。「なんです、よね」

「意地悪だなぁ」

 満足した私は、満面の笑みを浮かべながら、空を見上げ、呟く。

「でも、苦しみを味わった分、優しくなれるんだもんね」

 その呟きを聞いて、今度はあなたが、静かに、とてもやさしく言葉を宙に浮かべた。

「もう君を一生幸せにしていく分の優しさは貯めたつもりだけど」

 この人はいつもこうだ。しどろもどろの癖に、肝心なところで私をほっとさせる言葉をくれる。今日の会の最後に私の父から「君は娘のどんなところが好きなんだね?」と聞かれた時の答えもそうだった。

「彼女といると、ほっとするんです。とっても」

思い出して、意地悪というよりは恥ずかしさで、私は無理やりおどけてみせた。

「その優しさは猫舌で貯めたの?」

 今度は二人して笑いながら、私は思った。たとえ私たちがいる場所が、世界の本当隅も隅、地球のはじっこだったとしても、きっとあなたとなら幸せになれる。あなたのやさしさは、そこまでちゃんと包んでくれるだろうから。

 考えがぬる過ぎるかな?

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