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死んだらどうされたい?

「俺、鳥葬がいいな」

父がまた変なことを言い出した。鳥葬というのは遺体を鳥に食べてもらう葬送方法だ。勘弁してほしい。一応調べてみるとチベット仏教やソロアスター教で今も行われていて、専門の鳥葬師が骨まで残らず食されるように用意すると書かれていた。日本でやったら死体損壊罪になるとも。申し訳ないけれどご要望には添いかねる。

でも私も火葬はちょっと理想でない気がしている。はじめてそう思ったのは理科の教科書で生態系のピラミッドを見たとき。底辺から微生物、植物、草食動物、肉食動物と重ねられ、頂点の肉食動物は死んだら微生物に分解されると書かれていた。肉体の循環。でもそこに人間は入っていない。確かに火葬だと人は骨と灰と煙になり、煙はどこかへ行って、骨と灰は壺に収められる。誰の栄養にもならない体。循環型社会とか言う前に、まず自分たちが循環に入った方が良いのかもしれない。衛生管理は何とかするとして。

そういえば最近は、樹木葬という方法も耳にする。もしかして木の栄養になれるのだろうか、ちょっといいかもしれない。そんなことを思ったが、よく調べたら遺灰を骨壺に収めて墓石の代わりに木などを植えるということらしい。それでは循環はしなそうだ。それにもし骨壺がなくて遺体なり遺灰なりそのままが土にまかれたら、微生物に分解され、栄養素と化した自分が木の成長を左右する。あの人の木は良く育った、あの人の木は枯れそうだ。なんて、死してなお他者への貢献を評価されるのは、グロテスクですらある。

だったら海に流してもらう水葬がいいかもしれない。海の栄養になりそうだけど、その結果は見えない。灰にしてから海にまく海洋散骨でもいい。海の近くで育った私が、もっといえば海が起源たる生物の私が、死んで海に還るのはロマンがある。でも水葬は法律違反だし、海洋散骨もグレーゾーンらしい。私が父を鳥葬しないなら、私も水葬はされ得まい。

ここまで考えて、私は曾祖母が死んだときを思い出した。当時中学生。はじめて身近で大好きな人の死を経験し、理解するのがやっとだった。あんなにも悲しい気持ちのとき、もし鳥葬だ水葬だとややこしいことを考えねばならぬとしたら、遺された人は大変である。そう考えると、型があることで人は安心して悲しむことができるのかもしれない。それが儀式の役割なのかもしれない。だからいつか私が死んだら、その場所、その時代にあった方法で葬ってほしい。もし悲しんでくれる人がいたら、儀式のなかで少しずつその悲しみを手放してほしい。だんだん忘れて、たまに思い出して、また忘れて、そういう自然な死に方ができたら私も本望である。そのためには、まだまだ生きなければ。

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