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2022.3.10 キルギス邦人拉致事件解決の裏側

2億ドルの支援を中止し、人質を救出して下さい

今から8年前のことですので、まだ皆さんのご記憶にも残っているでしょうが、テロリスト集団ISIS(イスラム国)が帰らぬ人なった湯川遥菜氏と後藤健二氏の日本人2人を誘拐し、身代金2億ドル(約236億円)を要求してきました。

これに関して、当時の山本太郎参議院議員が、
「(イスラム国対策の)2億ドルの支援を中止し、人質を救出して下さい」と安倍首相宛にツイートし、それをISISが拡散して宣伝に利用しました。

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本来なら、日本国民が一丸となって、テロリストに怒りをぶつけなければならない場面です。

そうあってこそ、テロリストに日本国民全体を敵に回したと悟らせ、今後のテロ活動への抑止とすることができます。

それを、テロリストの要求が、さも正当であるかのように一国会議員の山本太郎が安倍首相に要求するとは、彼らISISから見れば、百万の援軍を得た心地でしょう。

山本太郎が、この程度の事にも気がつかずに、SNS上でこういった発言をしていた無定見ぶりは、国会議員としてあるまじきものでした。

また、もしそうと知りながら売名行為としてやったのなら、卑劣極まりないものです。

こんな発言が出回るのも、こういうテロ行為にいかに立ち向かうべきかについての国際社会の常識を我々がまだ備えていないからでしょう。

幸い、我が国には、テロリスト集団に拉致された邦人を無事に救出した成功例があります。

今回は、その成功例を辿って、こういった事態にいかに対処すべきかを考えてみるために書き綴っていこうと思います。

この事件の解決はキルギス政府に全てお任せする

随分と年月が経ち、また日本からも遠い場所で、あまり馴染みのない国での出来事なので記憶に残っていない方も多いかと思いますが…。

1999(平成11)年8月23日、アフガニスタンの東北に位置するキルギスで、JICA(国際協力機構)が派遣していた日本人鉱山技師4人と、キルギス人通訳者、キルギス軍関係者2人の計7人が、反政府ゲリラに拉致されました。

キルギスの南側にはタジキスタン、西側にはウズベキスタンが隣接しています。

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フェルガナ盆地はこの3ヶ国の国境線が複雑に入り交じっていますが、ゲリラたちは、そこでイスラム国家の設立を目指していました。

この地域が危険なことは、各国政府及び日本政府から再三警告が出されていましたが、この鉱山技師たちはそれを無視して人里離れた山中に地質調査に出かけ、そこでゲリラに遭遇して拉致されてしまいました。

8年前のISISの件もそうでしたが、政府の警告を無視して危険な地域に行き、誘拐されたら自己責任と言う他ありません。

政府は全力で人命救助にあたるべきですが、今後の誘拐再発を防ぐためにも、犯人側の要求に応えてはならないというのが大原則です。

上記の山本太郎をはじめ、ここのところが解っていない人が少なくありません。

ゲリラたちは、首領のナマンガニー以下、ウズベキスタン出身者が中心で、タジキスタンで活動していました。

偶々たまたま、キルギスの領地を通りかかった時に、7人を誘拐したのでした。

彼らは人質を連れて、タジキスタンの4000m級の山岳地帯に戻りました。

外務省は、キルギスの首都ビシュケクに現地対策本部を設置しましたが、
「この事件の解決は事件が起きた国、キルギス政府に全てお任せする」
という、まるで他人事のような方針を打ち出しました。

しかし、ゲリラたちはキルギス領を通過中の際に邦人を誘拐しただけで、ゲリラたちと何の関係もないキルギス政府に任せても解決できるはずがない事は現地では自明でした。

実際に、キルギス政府の使者がゲリラグループと接触しようとしましたが、全く信頼されず相手にもされませんでした。

拉致されている人のことを思えば、頑張らねば

ちょうど事件発生の2週間ほど前に、当時ウズベキスタン大使として着任したのが中山恭子氏でした。

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この後、内閣官房参与として北朝鮮から帰国した拉致被害者5人の受け入れにも活躍された方です。

ゲリラたちはウズベキスタン出身で、今はタジキスタンで活動しています。
タジキスタンはウズベキスタン大使館の管轄でした。

中山大使は、自分たちが動かなければ人質救出はできないと判断しました。

しかし、外務省からウズベキスタン大使館に出された指示は
「情報の収集のみ」
でした。

その指示を逸脱して動く事に対して、中山氏は大使としての責任を取る覚悟は出来ていましたが、心配したのは大使館員たちの身の上でした。

人質解放に成功したとしても、本省からは全く評価されないだろう…。

中山大使は、何度か館員たちに、
「それでも良いのか」
と確かめましたが、彼らはそのたびに、
「やりましょう」
と答えました。

ウズベキスタン大使館が、この事件に関連して動いていることを表立って知られてはならないので、昼間は普通の大使館業務を行い、その後、明け方まで連絡を取ったり、次の作業の打合せをする毎日が始まりました。

土曜も日曜もない。
「拉致されている人のことを思えば、頑張らねば」
と励まし合いました。

そうした館員の筆頭が、大使館次席の高橋博史参事官でした。

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高橋氏はアフガニスタンの大学を出た、この地域の専門家です。
現地語を話し、現地の様々な人々とネットワークを築いていました。

事件発生時、高橋参事官は、ちょうどタジキスタンの首都ドウシャンベに来ていました。

その1年前に、国連タジキスタン監視団の政務官として活動中に、現地でゲリラに殺害された筑波大学の秋野豊助教授の1周忌に参加するためでした。

高橋参事官はタジキスタンに張り付いて、様々なネットワークから情報を収集しつつゲリラ側との交渉も続けていました。

「キルギス政府にすべてお任せする」
という日本政府の態度にゲリラ側が怒って、
「日本政府が直接交渉に応じないなら、人質を一人ずつ撃ち殺していく」
とまで言い出した時も、必死で止めたのが高橋参事官でした。

救出に全力を尽くす。当然のことでしょう

事件発生から3日後の8月26日、中山大使はウズベキスタンのカリモフ大統領に会って、人質救出の協力をお願いしました。

大統領は、すでに事件の詳細をよく知っていました。

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そして、
「日本人が中央アジアで傷つく事は何としても避けなければならない。日本人人質の安全確保及び無事救出が第一と考えており、その為あらゆることを行う用意がある」
と明言し、
「自分のところに入ってくる情報を直接伝えましょう」
と約束しました。

中山大使はタジキスタンの首都ドゥシャンベにも行き、高橋参事官と共にラフモノフ大統領にも日本人人質救出の協力をお願いしました。

ラフモノフ大統領は、
「救出に全力を尽くす。当然のことでしょう」
と答えました。

大統領は高橋参事官のこともよく知っており、彼の顔を見て、
「頑張っているよね」
と親しみを込めて励ましてくれました。

後で分かった事ですが、カリモフ大統領からラフモノフ大統領に、次のような趣旨で何度も電話が入っていました。

「もし、中央アジアで日本人が傷つけられたりしたら、中央アジア全体から日本が引いてしまう。それは中央アジアにとって大きな損失だ。これはタジキスタンだけの問題ではない。なんとしても無事に救出すべきだ。」
と。

もしナマンガニーから日本人達を取り戻せなかったら

カリモフ大統領の助言が効いたのか、ラフモノフ大統領の対応も真剣でした。

全ての閣僚を集めて、皆の面前でミルゾー非常事態大臣に日本人人質救出を命じました。

ミルゾー大臣は、タジキスタンの内戦当時、ラフモノフ大統領に対抗する反政府野党イスラム統一党の統一司令官でした。

その後、両勢力の停戦協定が成立して、ミルゾー氏は内閣入りしたのですが、日本人を拉致したゲリラ達は、首領のナマンガニー以外は彼の元部下でした。

彼らは停戦協定に従わずに、その後もゲリラ活動を続けていたのでした。

ラフモノフ大統領としては、昔の部下の仕業なのだから、お前が収拾しろという意図だったのでしょう。

大統領は全閣僚の前で、
「貴方がもしナマンガニーから日本人達を取り戻せなかったら、貴方が国際テロリストだと国際社会に向けて宣言する」
とまで言い放ちました。

並行して、中山大使はイスラム統一党の党首ヌリ氏も訪ねて協力を依頼しました。

ヌリ党首は政権には入りませんでしたが、当時は精神的指導者でした。

中山大使が高橋参事官と共に、ヌリ党首の事務所がある建物の玄関の石段を上っていくと、マシンガンを小脇に抱えた兵士達が押し寄せてきました。

周りの人々は一斉に姿を隠します。
中山大使は、
「自分たちはここの客人のはずだから」
と石段を登り切ると、その兵士等の中央にムスリムの聖職者の民族衣装を着た大柄な人物がいました。

ヌリ党首でした。

客人として丁重に8畳ほどの小さな部屋に案内され、高橋参事官が通訳をします。
周囲を屈強な者たちに取り囲まれる中、
「日本人が拉致されました。拉致したのはあなたの元部下だと聞きました」
と中山大使が言うと、
「何とかして無事に連れ戻さなければねぇ」
と、ヌリ党首は静かな口調で答えました。

ナマンガニーは元部下ですが、ラフモノフ大統領との和平に反対して、ヌリ党首とは袂を分かって戦闘を続け、今回は勝手に拉致事件を起こした人物です。

ヌリ党首は、どうしたら無事に人質を救出できるのか一生懸命考えてくれました。

人質や誘拐はイスラム教徒にとって最も恥ずかしい行為

ミルゾー大臣は、自らナマンガニーのグループが潜んでいた山中に赴き、説得に乗り出しました。

ヌリ党首もイスラム統一党の野戦指揮官たちに対し、ミルゾー大臣に従って現場に赴くよう指示しました。
こうして、かつてのミルゾー司令官率いる140人もの野戦将兵がナマンガニーのグループを取り囲みました。

ミルゾー大臣はナマンガニーに対して、
「人質や誘拐はイスラム教徒にとって最も恥ずかしい行為であり、特に聖戦兵士がなすべき行為ではない」
と説得しました。

そして、
「自分は5年に渉ってタジキスタンで聖戦に従事してきたが、一度も人質や誘拐を行ったことはなく、特に何の関わりもない日本人を人質に取るのは神の教えに反する」
と説諭しました。

さらに、
「人質に危害を加えたり身代金を取ったりしたら、ナマンガニーグループはテロリスト集団であると、国際社会から認知されることになり、それはナマンガニーグループの運動の趣旨から全くかけ離れたものになる」
と説得しました。

ミルゾー大臣の三日三晩の説得をナマンガニーはようやく聞き入れ、事件を起こした犯行グループ全員を無事にアフガニスタンまで送り届けるという約束の下に人質を解放しました。

ナマンガニーはタジキスタンを去る時、ミルゾー大臣に別れを告げ、本当はアフガニスタンには行きたくないと涙を流していたといいます。その後、彼の行方は分かりません。

当然のことをしたまで

人質が解放されたのは1999(平成11)年10月25日、事件発生から64日ぶりのことでした。

日本政府は当初から、
「キルギスに全てお任せする」
という方針を取っていたので、辻褄を合わせるために、人質たちをタジキスタンから山を越えさせて、わざわざキルギス領内まで歩かせ、そこからヘリコプターで報道陣の待ち構える首都ビシュケクに運ばせました。
いかにも官僚的な茶番劇です。

ウズベキスタン大使館員たちは、人質がヘリコプターから降りてくる光景をテレビで見ながら、彼らが無事であったことに涙を流して喜びました。
館員たちの必死の努力は誰にも認められませんでしたが…。

中山大使は、ウズベキスタンのカリモフ大統領、タジキスタンのラフマニノフ大統領、そしてイスラム統一党のヌリ党首に、それぞれお礼を述べに伺いました。

そのお礼の訪問に際し、日本政府からは、
「今回の件では十分に働いたからと、いろいろ要求を出してくる可能性があるが、その場では受けないようにしてください」
と、釘を刺されていました。

当時、日本国内では、中央アジアの人々が日本人人質解放のために働くのは、お礼を求めての事だといった報道もされていたのです。

しかし、カリモフ大統領は事件解決を喜びながらも、
「当然のことをしたまで」
ラフモノフ大統領も、
「いや、自分の国の関係者が起こしたことだから。まず無事で良かった」
ヌリ党首は、
「自分のしたことなど、あなたの感謝の言葉に値しないことです」
と、3人とも日本に要求する気持ちなど微塵もありませんでした。

中山大使は、日本政府からの注意に、一瞬でもそんな要求があるかもと考えたことを恥ずかしく思い、自分はまだまだ現地の人々のことを全く分かっていないと自らを厳しく戒められました。

現地との信頼関係こそ、問題解決の鍵

「自分はまだまだ現地の人々のことを全く分かっていない」
とは、今でも多くの日本人が自省すべき事でしょう。

事件に関係のないキルギス政府に、
「すべてをお任せする」
と、外務省は机上で方針決めましたが、テロリストに関係のないキルギス政府の使者は相手にもされませんでした。

逆に、現地を良く知り、現地との信頼関係を築いていた高橋参事官がいたからこそ、ウズベキスタン、タジキスタンの両大統領やヌリ党首の全面的な協力を得られ、それが事件解決につながりました。

冒頭で、
「2億ドルの支援を中止し、人質を救出して下さい」
という山本太郎の発言を紹介しましたが、これは現地を知らず、知ろうともしない人間の無責任かつトンチンカンな発言です。

仮に、高橋参事官やミルゾー大臣がゲリラを説得している最中に、背後から
「身代金を払って人質を救って下さい」
などと山本太郎のような人物が言ったら、ゲリラ達は日本にも自分たちに賛同する人間がいると考えて、説得もはるかに困難なものとなったことでしょう。

我々がすべきなのは、テロリストに荷担するような発言を徹底的に批判し、日本国民一丸となってテロリストたちに怒りを示し、現地で人質救出のための活動をしている人々をバックアップすることではないでしょうか。

いつもより長くなりましたが、最後までお読み頂きまして有り難うございました。

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