2022.8.1 幕末期の外交官が選ぶ最高の日本人とは?

貴方は、ハリー・パークスという人物をご存知でしょうか?

パークスは幕末明治期に活躍した駐日英国公使であり、なんと18年もの間、激動の時代をゆく日本を目の当たりにしてきました…。

パークスはもちろん英国大使ですから、一番に考えていたのは英国の権益を守ること、そして英国の貿易を発展させることでした。

そのため、日本政府とは表面上対立することもありましたが、
「長い目で見れば、日本が発展を遂げてくれた方が英国の利益に繋がる!」
と考えていたのです。

実際、パークスは事ある毎に、日本政府へアドバイスをしていますし、鉄道を敷くべきだと迫ったりもしました。

しかし、彼が日本に着任したのは1865年。
つまり、明治維新が起こる直前だったのです…。

貴方もご存知の通り、この時代の日本は大荒れでした…。

『打ちこわし』や『ええじゃないか』といった社会不安から来る騒乱…。

旧幕府と新政府の対立…。

長年の鎖国で生じた西洋との差…。

こんな日本に発展を期待する方が難しかったかもしれません…。

しかしそんな中、パークスはある一人に目をつけ、日本の発展に大きな期待を抱くようになるのです。

明治維新期といえば、歴史の教科書やドラマにも出てくる数々の偉人が名を連ねますが、パークスはその人物を
「日本人の中で最高の人物だ!」
と絶賛しています。

…しかし、その人物は、今ではかなり評判が悪く、全くと言って良いほど人気のない人物なのです。

なぜ、数々の事件や偉人を見てきたパークスは、この人物を絶賛したのでしょうか?

そこには、この人物こそが明治維新の起源だったという裏ストーリーが隠されていました…。

徳川慶喜弱腰説の嘘と明治維新の歴史を変えた奇跡の書の秘密

貴方は“明治維新の偉人”と聞いて、誰を思い浮かべるでしょうか?
日本史を一変させた大変革だけあって、色んな人物が頭に浮かぶかもしれません。
西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、坂本龍馬、板垣退助…。
名の知れる正に偉人たちのオンパレードであり、どれも勇将たる素晴らしいイメージの人物ばかりが挙げられますが、ここで一つあなたに質問したいのです。

“徳川慶喜”という名前は、貴方の脳に浮かんだでしょうか?
もちろん浮かばないのも無理はありません。

なぜなら、世間では慶喜は逃げ腰で、とても不評だからです。
徳川慶喜は敵前逃亡の愚将などと言われ、新政府軍との戦い『鳥羽・伏見の戦い』で、敵を前にして一人だけ江戸へ逃げた…、というエピソードだけが取り上げられているからです。
なぜ、こんな人物が日本を変えた偉人の一人に?
と思うのも無理はありませんが、実は、慶喜がした“あること”が、江戸から明治への近代化の第一歩を築いたと言っても過言ではないからです。

『鳥羽・伏見の戦い』での敵前逃亡も、実は、その一環だったのです。

今回の記事では、敵前逃亡の愚将と言われる最後の征夷大将軍である徳川慶喜が、なぜ明治開国の始祖と言えるのか?
そのエピソードを深く掘り下げていきます。
…もし貴方が、明治維新の礎にまつわる謎を解き明かしたいと考えているのであれば、是非続きをご覧下さい。

徳川慶喜の先見の明

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