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「同情するなら金をくれ」を今の時代に考える

文章というものを書くと、いつもふと何気なしに思うことってありませんか。

これってどんな人が読んでいるのだろうか、なんで書いてくれとも言われなくても書いているんだろうとか。

そもそも、こんなの誰も読んでないんだろうなとか。

でも間違いなく自分が、今、思っていることを文字にしています。

noteだと、ダッシュボードを見ればその書いた本人であれば、ざっくりと簡単なアクセスの人数的なことは表示がされます。

誰か知らない人でも共感してくれたのなら、ハートマークが付く。見たことも会ったこともない知らない人に。

でも、そもそも共感を求めて書いているのだろうか、これは共感なのか同情なのか。別に共感なんて最初から期待もしていないとか、考えるだけで時間が過ぎる。

心理学で、他者承認という、他人から認められたいという人間の基本的な欲求があります。これも強い人、弱い人もいますが、本能であるがために、自分自身は、そんなこと思っていないと思っていても、他者から認められ、褒められることがモチベーションとして動くというのは、まさしくそれだと思います。

特に日本人は、意識には出てこないようなレベルで認められなければならないという思いが、今度は切迫した感覚に陥りやすい傾向があるらしく、今日本が抱えている社会問題や、日本人のネット活用の仕方での悪い方向にあるものの根本的なところにそれはあると言われています。

昔、安達祐実主演ドラマ「家なき子」で「同情するなら金をくれ」というまだ小学生の頃の安達祐実が叫ぶシーンがありました。

安達祐実は、病床の母を助けたいがために、手段にこだわらず激しく金に執着していたシーンです。「同情より金がいい。守銭奴でもいい。金は絶対に私を裏切らない」

世の中に、宝くじやギャンブルというものが成り立つということ、それは人の心には、多かれ少なかれ、労せずして金を得たいという気持ちがあることは確かだ思います。
だけどその気持ちに、他人からの同情が絡んでいるということを許容できるかどうかの究極のセリフだと今でも、昨日見たかのように覚えています。

このセリフはドラマですが、世の中は真っ二つに割れました。「お金が欲しかったら自分で働け、そもそも子供でも人格としてどうか」と、「お金は裏切らない、汚れたお金だろうが関係ない、同情は母を助けれないけどお金があれば助かる」と。

なぜ、ドラマなのに二分化し割れるのか。どんな時代でも割れるのか。

ネット社会の今でも本質はまったく変わることのない意味を持つ文、文章だから、ドラマは脚本ですが、例え短文のTwitterでも本質となるところは同じだと思います。

このnoteで何か、文章を書いている人には、それまで生きてきたバックボーンがあり、そこで培われた考え方や、このnoteへの向き合い方で、人それぞれがそれぞれに異なる気持ちのベクトルで書いているのだと思っています。

Facebook系のようなClosedアプリ、Twitterとか、個人のブログとか、MediumとかcakesとかPinterestとかInstagramとかLINEとかYouTubeとかニコニコとか昔はGoogle+とかmixiとか昔はGREEという後にゲーム会社になったSNSも。

そこで何を使うかという意味での考える基準はそこで「何をしたいのか」、とか、「誰と繋がりたいのか」とか。

それは、自分と横にいる人が、同じものを見ていても、目に映るものは同じかもしれないけど、でもその人が受け取る意味は違うかもしれない。

同じ記事を別のプラットフォームでも投稿すると、まるで違う国の人じゃないのかと思うほど、反応が異なったりします。

同じ文章は、決してすべての人に同じ文章の意味を持つことはできないとよく思います。なぜなら、人は全員違う道を歩み、たまたま同じ文章を読み、その解釈をしている、それは文章だけでなくても、例え同じ映画を観たとしても、面白い、そうでない、と意見が分かれるかのように。

意見が分かれる。逆に意見が分かれない世界はありえないのです。

今、世の中でもいろんな出来事があり、感じることがあり、著名なコメンテーターは色々な意見も言う。だけど、そのコメンテーターが言っていたからそれは正解でなく、それを聞いた上で、自分の人生に照らし合わせて考える。

今、世の中に必要となっている能力って、大切なことが2つあると思っています。

「嘘か本当か見抜ける力」と「それを他人の意見にすぐに流されず信じること」。

特に後者が大切かと思っています。


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