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なぜ坊主にしなければならないのか

目を瞑ってぼーっといろんなことに想いを張り巡らしていたら

ふと、「なんで野球部に入ったら坊主にしなきゃいけないのか」

「坊主にすることが伝統?ふざけるな。

人権侵害を伝統という都合の良い言葉に置き換えるな!」

と思ってしまった。

かくいう僕自身も中高の間に野球部に在籍していた間

野球部=坊主というは当たり前だし、そうしなければいけないのだと

思っていた。

というか、思わされていた

でも、「なんで坊主にしなきゃいけないんだろう🤔」

なんて馬鹿正直に考える暇もなく、ただただそれが当たり前だと

周りの同調圧力に押しつぶされ、考えることをやめてしまっていた。



でもそもそも部活動が「生徒の自主的・自発的活動によって行われるもの

であるという前提がありながら、先生や保護者たち、高校野球ファンやら

などの大人たちが勝手に子供の部活動に口出しするなど

おかしな話であり、

はっきり言って、矛盾している

子供たち主体の活動にも関わらず、その活動の内容の是非を決めるのは大人



戦後から部活動の歴史は何も変わっていない。

それを今の大人たちは正そうとしない。

というか、間違いを認めることができていない。

「先生が学生の時はもっと酷かった」

「あの厳しい練習があったからこそ成長できた」

「あの先生に殺されるかと思ったけど頑張ってよかった」

などと、自分が体験したことの間違いを認めずに

成功体験にしてしまう。

ゆえに、その成功体験を今の子供達に押し付けてしまう。

なんて残酷な大人たち、そして学校システムだろう。



自分がもしその先生の体罰、暴言、暴力により

なんらかの障がいや精神疾患、病気にかかったり、

最悪の場合、帰らぬ人となっていたのなら

間違いなく「あの先生の教育は間違っている」と断言できるだろう。


話を元に戻すと、

僕自身の考えとしては、

野球部が坊主にしなければいけないというのは

人権侵害だし、古いステレオタイプの考え方、価値観、偏見

科学的根拠のない根性論に基づく、時代遅れの考え方であるということ。


とはいっても、これから10年〜20年は

野球部は坊主にしなければならない」という

「伝統」という都合の良い言葉に書き換えられて

子供達に継承されていくと思うのが

ものすごく悔しい。


追記:自分の趣向で坊主を選択している人に対して

   失礼という点に関しても

   「野球部=坊主」はやめた方が良いと思います。

   新たな差別を生むだけだと思います。






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