見出し画像

5歳

5歳が聞く
「ママ、娘ちゃんが生まれてきて嬉しかった?悲しかった?」
これはもう、「明日もまた見てくれるかな?」に対して「いいとも!」と答えるくらい、お決まりの台詞で、絶対の確信とセットの質問だ。
「もちろん、嬉かったよ」
「生まれてくる前、あかちゃんほしかった?」
「ほしかったよー。いたら可愛いだろうなぁって、思ってたよ」
そういうと、満面の笑みで「ほらぁ!生まれてきて良かったね!」
なんて言うのである。

ひさしぶりに、電車を乗り継いで、2人だけでお出掛けをした。
あれ?この駅、乗り換え、こんなだったっけ?こんなスムーズだったっけ?
脳がバグったような感覚になり、ふと、辺りを見回す。コロナ前からその駅は何にも変わってないはずだ。
いや、変わったのは私と娘のほうだ。
ベビーカーがない。
そうだ、娘が歩いている。
ベビーカーがないと、エレベーターに乗らないので、探さなくてすむ。抱えて階段を歩くなんて離れ業もしなくてすむ。小さな段差に立ち往生しなくてすむ。
いちだんいちだん、それは娘のテンポだけど、ゆっくりと階段を降りていける。
それに、いつの間に、この長い道を抱っこと言わなくなったのだろう。
いつの間に、オムツ替えの心配もしなくなったのだろう。大きくなったなと実感する。

最近、「こわい」と言うことが増えた。
粒々のついている葉っぱ、虫食い、蜂の巣の映像……。集合恐怖症なんだろうなと思う。いっぱいあるものに、こわいと言う。
ホームから落ちるのをこわがる。ホームドアがないホームを、ヘリから大分距離をとって歩こうとするだけで、全力でとめられる。
下りの階段を降りるとき、慎重さが増している。
とっておいたジェラシックパークをみようとしたら、「やめてーーーーっ!!!」と叫んでいた。
「ウクライナとロシアは、どうして戦争をするの?日本はしない?」と、心配している。

5歳は、『if  もし』が分かってきたのかもしれない。
『もし、ホームに落ちちゃったら』『もし、恐竜がきたら』想像力が、怖さも生む。あんなに母の口を酸っぱくさせて、「危ないからやめて」と言われてきた娘が、最近は母をたしなめる側にたっている。
今のところ、娘の言う「怖い」は、自分が食べられそうとか、危害を加えられそうなものにたいしてが多いので、心霊現象的なものはまた違うようだ。
まぁ、前世はペガサスだったと言う娘だから、そういう類いのものとは、まだ共存しているのかもしれない。

母は、そんな5歳の娘を見ていて、『こわい』と思う時がある。

昨日、「君のすい臓を食べたい」という映画をアマゾンで観てこっそり涙したとき、思っていたのはヒロインの母の気持ちだった。(ネタバレになるのでこれ以上は割愛する)

大きくなっていけばいくほど、娘が離れる時間も増える。当たり前だし、それでいい。
手を離して目を離すなという時期にきていることを実感するこの頃。
でも怖いのは、永遠に失うことだ。失いたくない。頼むから、絶対母より先にいかないでくれと、願う。
育てるとは、そういうものなのか。
頼むから、どうか健康で、と祈りたくなる。
だから、七夕や七五三があるのだろう。短冊にかかれた願い事が、どうかいつか叶いますようにと、大人の方が願っている。
大人になった方が、『if もし』の例は増えていく。昨今は、いろんな事例、注意喚起が耳に入る。だから、怖いものも増えていく。
成長すると、怖いものって増えていくんだな。

期せずしてほぼワンオペの5歳の娘とがっつり過ごしたお盆が終わろうとしている。疲れもするが、まだまだ足りない。あれにもこれにも行きたかった。

いや、まだ、夏は終わらないし、当たり前のように秋が来るだろう。きて欲しいと、願うのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?