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あなたといるときの「わたし」が好き〜『私とは何か-「個人」から「分人」へ』〜

「あなたのことが好き」と言われるのはもちろんうれしい。でも、「あなたと一緒にいるときのわたしが好き」って思ってもらえたら、もっと幸せなんじゃないかと、ふと思う。

noteを書き始めてもうすぐ1年。

まいにち更新にも挑戦したし

イベントレポートにも挑戦した。

どの記事も、今振り返るととっても愛おしいなぁと思っていて。まいにち書いていなくても、やっぱり書くことがスキだなって思いながら今日もnoteを書いている。

それでも。この前おしゃべりをしている途中に「そういえば、sanmariの松本の記事、読んだよ」なんて言われてしまったその瞬間、えらく動揺してしまうわたしが、そこにいた。

わたしはどの記事も大事だなぁと思っているし、読まれて困るようなことを書いているつもりもない。それなのに、なんだか恥ずかしさがこみ上げてきてしまって「読んでくれてありがとう」なんて言いつつも心の中では(わー。なんてことだ。)と大パニックに陥っていた。まるで、授業参観にきた母から「学校では、お家と違う顔をしているのね」とニヤニヤされたときのような、そんな恥ずかしさ。

わたしのnoteを読んでくれたその人と過ごすわたしを、わたしはそれなりに好きだと思っている。と同時に、noteを書いているわたしもまた、好きだ。

その人と過ごすわたしは、「ただそこにいること」に安心感を覚えてその気持ちを言語化することが少ないと思う。だから、「〇〇についてsanmariはどう思う?」なんて尋ねられてもうまく言葉にできなくて不完全燃焼になってしまう。

そうやって不完全燃焼になっても、言葉が出てきたときにもう一回その話をする余地をくれるから、たぶん居心地が良いんだと思う。感謝だなぁ。

でも、noteを書いているわたしは当然「ことば」で表現しているわけだから、自分の気持ちを言語化できていることが多いと思う。ただ、「言語化」に時間がかかるわたしは、あんまり「その日のこと」をnoteに書くことは少なくて。料理をしたりモーニングページを書きながらふと言語化できたそのことを書いていることが圧倒的に多い。

それなのに。noteにアップするときはその時差なんて見えないし、まいにち更新していたら尚更とても言語化できる人みたいに見えてしまう。だから、その人に見せている「わたし」とnoteを書いている「わたし」はやっぱりどこか違う。

どちらのわたしも「わたし」なんだけれど。その人に見せている「わたし」ってわたしの一部だから、また別の側面をもった「わたし」を見られるとなんだかえらく動揺してしまうみたい。

でもそれは、わたしだけじゃないと思うんだよね。その人だって学生時代にわたしと手話で喋っているところを友人に見られて、「知らない人に見られるのはいいけど、知っている人に見られるのはなんだか恥ずかしい」って言っていたもん。その日の会話における手話表出は、普段の3割減くらいだった。

どれも同じ「わたし」なのに、なんでこんなにも小っ恥ずかしいんだろうなぁなんて思うけれど。でも、その人と一緒にいるときの、そのことをしているときの「わたし」を好きでいられたらそれだけで充分なのかもしれないな。

そんなことを思いながら、『マチネの終わりに』の著者、平野啓一郎さんが書かれた『私とは何か–「個人」から「分人」へ』を読んでいた。

もちろんこれも、今日よりも、少し前のお話。




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