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正義と悪

文章とか書いている場合じゃない。とてもそんな気分じゃない。そう思って、日記ひとつ書けなかった。

本当は、そういうときこそ記憶を記録した方がいいのではないか。そういうときこそ、繊細な感情をちゃんとアウトプットしたら、むしろ気持ちが楽になるのではないか。

頭ではわかっているのだが、急性期の傷はアイスノンで猛烈に冷やさないと痛くて仕方がないのと同じで、パンパンに腫れ上がったこころはとても触れられる状態じゃなかった。数日経ってようやく、ことばにできそうな気がする。

居眠り運転をして、事故をした。

あっという間の出来事で、何も覚えていない。ただ、運転中に死ぬほど眠くて、「この用事が終わったらちょっと仮眠しよう」と思ったことだけは覚えている。次の瞬間は、とても静かな空間の中「なんでガラスが割れているんだろう?」と思った。

私の車は、カーブを曲がらず直進し、対向車線を突っ切って、路上駐車している車にぶつかりながら花屋の店先に突っ込んでいた。ようだ。痛みもなければ、記憶もない。ただ、私の車の窓ガラスは割れ、サイドミラーはぶっ飛んでなくなり、黒いコードだけが虚しくゆらゆらと揺れていた。そして、店頭の植木鉢は割れ、フェンスは歪んで、路駐していた車はぐしゃりと右側が大きく凹んでいた。

ああやってしまった、と思った。

前を見ると割れたフロントガラスが、黄緑色の小さな粒になって宝石みたいにキラキラ光っていた。ああ、きれいだな。車の外の現実の世界と、隔離された車内のあたたかくて静かな世界。不謹慎かもしれないが、こんな時にでも人ってきれいとか思えるんだと、少し救われる気がした。深呼吸をひとつして、ギシリときしむ車の扉を開けて外へ出た。

幸い人的被害はなく、物的被害のみだった。本当に救われた。私は狂ったように諸機関への連絡と謝罪と立ち回っていたが、印象的だったのは、警察がとても高圧的だったことだ。

「ここの縁石が崩れているから、あなたはまずこの縁石にぶつかってからこの車にぶつかって、ここの店へ突進した。そうじゃないんですか?!」

畳み掛けるように言われる。記憶をたぐり寄せてみるが、本当に思い出せない。詰問されているうちに、何がなんだかわからなくなってくる。

「本当に何も思い出せないです。ただ、縁石が崩れているのなら、そうなのかもしれません」。やっていないことでも、弱っているときにあの口調で問いただされたら、認めてしまいそうだ。

「あなた自身も病院へ行った方がいい」と言ってくれる相手の保険屋さんの声を遮るように、警察は厳しい口調で「あなたが行くかどうかは、たいした問題ではない」と言い放つ。

そのとき、私がぼんやり考えていたことは、なぜかピエール瀧のことだった。何か悪いことをしてしまった人は一気に犯罪者になって、こうして存在さえも否定されるのか。私は犯罪者なのか。悲しいとかいう感情はなかった。同時に、テンパっている人にこの口調で詰問すると余計混乱するから、もっと違うアプローチの方が効果的なのではないか、とやたらと客観的に眺めている自分もいた。恍惚とさえ見える表情で早口で喋っている警官。彼が正義で、私が悪か。正義を振りかざす人間は、どうも苦手だ。

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