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徳川家康の「家」の文字の由来は?

NHKの大河ドラマ「どうする家康」の昨日の回では、主人公、徳川家康と石田三成の関係が一気に緊迫化してきました。ストーリーは家康の天下取りに向けて、佳境を迎えようとしています。

ところで、徳川家康の名前はどのようにつけられたのでしょうか。もともと徳川家康は三河の戦国大名、松平氏に生まれ、幼名は竹千代、やがて駿河の大大名・今川義元の下に身を寄せ、元服して「松平元信」に名を改めます。その後、数年のうちに「松平元康」と改名しました。

「信」や「康」の字は曽祖父の「信忠」、祖父の「清康」の字を引き継いだと想像されますが、「元」はどこから貰ったのでしょうか?ここは、想像に難くないと思います。烏帽子親である今川義元から「元」の字を受けたのです。
鎌倉時代以降、主君が実名(諱・いみな)の一部を直属の家臣に与える慣習が一般化しています。例えば、南北朝時代に活躍した室町幕府の始祖、足利尊氏は最初、鎌倉幕府の最高権力者、北条高時の「高」を受けて「高氏」と名乗っていましたが、幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政が始まるとともに、天皇の名前「尊治」の一字「尊」を受け、「尊氏」と改名しています。

その後、桶狭間の戦いで今川義元は尾張の織田信長の奇襲に遭って討ち死にし、それまで今川方にいた元康は、義元亡き後の今川家と袂を分かって、織田信長と同盟関係に入ります。

それからしばらくして名乗ったのが「家康」です。本人が22歳の時です。この「家」の文字は誰から貰い受けたのでしょうか。「家」の字は、同盟相手の織田家は勿論、当時の京都の足利将軍家、公家といった権力者たちにも使用されていません。その当時の慣習から考えると、この名乗り方は相当イレギュラーだったと考えられるのです。

この謎は、家康が25歳に三河を平定した後、姓を「松平」から「徳川」に改姓したこと、同時に朝廷から従五位下三河守の官位を得たこととリンクして考えるべきです。

まず、家康はなぜ父祖代々の「松平」の姓を捨ててまで、「徳川」を新たに名乗ったのかについてですが、 ここには、下剋上の時代とは言え、平安の昔から続く名族に対する強い意識が当時の朝廷は勿論、武士たちの間にも残っていたという背景があります。

上野国 (現在の群馬県) 出身で14世紀に活躍した武将、新田義貞をご存じでしょうか?後醍醐天皇の討幕運動に呼応して挙兵し鎌倉幕府を滅ぼした人物です。足利尊氏とともに清和源氏の流れをくんでいますが、彼の一族で同じく上野国を拠点とする豪族に新田義季を祖とする得川氏 (徳川氏とも表記) がいました。この一族と松平氏を結びつける動きは家康の祖父の清康の代からあったようですが、家康は「徳川」への改姓によってそれを鮮明にしたのです。三河守の官職を得るために家格を上げる必要があったからだと思われます。

それでは、なぜ「元康」から「家康」に改名したのでしょうか。今川家と縁が切れた以上、「元」の字を返上したのは理解できますが、「家」の字が何に由来しているか上述の通り不明です。歴史研究者の間でも結論が出ていないようです。ここからは私の推論になりますので、もし関心ありましたら読み進んで下さい。

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