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継続を美徳とする強迫観念


『手段を目的にするべきではない』

Twitterで『手段 目的』と入力すると、今日もたくさんのツイートが溢れている。



大晦日の昼下がり、高知のローカルファミレスでランチを済ませていると、偶然にも見覚えのある男性が入店した。高知で出逢った大学の先生だった。

僕を見つけるや否や同じテーブルに腰をおろし、小一時間さまざまな話をした。とまり木ホステル以外で会うのも、2人で会うのも初めてだったので、とても新鮮な時間だった。

コミュニティの外で対話するその時間は、ありのままの自分として肩の荷を降ろして話ができ、とてもプライベート感があり心地が良かった。


思い返したら、友人知人と会う時間の大半が、とまり木ホステルという仕事場になってしまっていた。そこでのコミュニケーションに対して、無意識のうちに "しがらみ" を感じていたのかもしれない。

旅人の僕も、こちら側の人間になっていたのだ。




昨日ツイートをした通り、僕は今いる場所からフェードアウトする選択をした。

12月のおわりに、スタッフ全員で先に共有していた内容だったので、自分の進路について先生にも話をしたのだが、先生も同じようなことを日常で感じているようだった。


そこで出た会話をもとに、
少しだけ深掘りをしてみた。



『途中でやめる、途中で変える、途中で手放すということ』


日本にいると、同じ環境で同じことを継続している人の方が優れているかのような価値観がある。環境やライフスタイルを変える人は、社会的に信用できない人のようにさえ思われるのだ。

この時代においてもまだ『我慢して継続する、首尾貫徹やりぬく、最後まで諦めない』のようなことが【美徳】とされている。

日本にある『○○道』の文化や、農耕民族としての名残なのかもしれない。


もちろん一つの価値観として存在していいと思うし、それを通じて【成功体験】を得た人も多いからこそ、そういったことが美徳とされるのだと思う。それは悪いことではない。

僕も『継続は力なり』と思うし、短期的なアクションと共に、持続可能なアクションを目指したいと思って行動している。

ただ、あまりにもそれが【常識】化し、【固定概念】化されてしまうと、継続することが【目的】になりかねない。


いまの日本はメンタルシックが蔓延している。その一つの要因として、この【継続を美徳とする強迫観念】があるのではないだろうか。


会社を我慢して続ける、夫婦との関係を我慢して続ける、地域でのいざこざを我慢して耐え抜く…


ゲストハウスで海外の方と交流をしていると、【継続を美徳とする強迫観念】は日本独自の病のようにも感じられる。『自分らしくあるために』『自分がより幸せになるために』を優先する日本人がまだまだ少ない。


他者目線の評価に縛られて、自分らしさを失って、我慢して一生を終えるなんてバカげている。

『自分が幸せになること』を許してあげる人生を目指さなければ、自分の人生なんて送れない。自分に嘘をついて生きる必要なんてない。



これからの時代は、我慢や継続ではなく、嘘をつかず誠実に生きる人にこそ、信頼や信用がついてくる時代だと僕は思う。

時代は常に変化し、玉石混交さまざまな情報が溢れ、誰とでも繋がれる時代だからこそ、よりリアリティのあるもの、より嘘のないもの、より変化に対応できるものを信じるようになる。


継続ではなく、嘘をつかないことだ。



足るを知る。

現状に満足できる幸福の感度は大切にしつつ、これからも自分らしくあれる環境に貪欲でいたい。



こんな僕にも、
いつか落ち着く日が来るのだと思う。



日本微住計画BLOG
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