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「はじめては しっぱいするんだよ。」

1か月間に渡る教育実習が終了した。その記録と、子どもがかけてくれた、心震える言葉をここに残したい。

実習最後の日、子どもたちから沢山の手紙と寄せ書きを、先生方からは激励の言葉と花束をいただいた。

実習前、色々なことが重なって精神的に参ってしまっていた自分に、こんなにも成長できる力と、それを成し遂げる精神力が残っていたとは思っていなかった。パニックになって途中で早退したり、最悪中止になってしまったらと考えると、実習前からどうにかなってしまいそうなほどの不安だったのである。

なのに1度も現場で不安に苛まれて足を止めることはなかった。教壇実習も回数を重ねるごとに何とか子どもたちに「楽しかった!」「わかりやすかったよ!」と言ってもらえるまで成長できた。研究授業も、教材研究とイメージトレーニングを何度も重ねて、大勢の教員に見守られながら最後までやりきることができた。

義務感や責任感、申し訳なさに押しつぶされそうになっていたセルフイメージが、ようやく少し自信を持てるようにまで回復してきた。そんな感覚だ。

ここまで自分が思いなおせるようになったのは、子どもにかけてもらった言葉が自分を奮い立たせたからである。


◇初めての教壇実習


実習が始まって2週間目の火曜日、2時間目に初めての教壇実習を控えた私は前述のような不安も相まって酷く怯えていた。

担当学年は2年生。扱う科目は「道徳」だ。

道徳は2020年度の学習指導要領改訂で「特別の教科 道徳」として新たに教科化された科目である。指導教諭との話し合いの中で、「道徳ならある程度流れが決まっているし、初めてするならいいかもしれない。」という結論に落ち着き、「失敗しても大丈夫だから。」という助言を受けて担当させていただくことにしたのだ。

だが、あの時の自分にとって「失敗」とは「死ぬこと」と同義であった。「失敗」は社会的な信用を失くし、個人的な信頼を損なう、そして今までやってきたことが全て無価値なものに転じさせてしまう行為だと信じて疑わなかったからである。

2時間目の始まりを知らせるチャイムが鳴る。日直が挨拶をし、初めての教壇実習がスタートした。

授業終了のチャイムが鳴ったとき、私は「失敗した。」と確信した。作成した略案の授業展開とは程遠い展開になってしまったし、時間配分も無茶苦茶だった。そして致命的なことに、題材側(教員側)が子どもたちに考えさせたかったことと、子どもたちが書いたノートとは全くと言っていいほど乖離していたのだ。

自分が予想していたものとは全く違う展開。集団という形態の中で、子どもたちの興味・関心を侮っていてリアクションに対応しきれなかったのが原因なのは明らかだった。

傲慢にも、個別指導のように、自分の言葉に子どもたちが頷きで返してくれ、リアクションを拾いながら授業が進むと信じ込んでいた自分を激しく呪った。信頼して任せてくれた指導教諭にも申し訳ないし、何よりせっかくの楽しい題材なのに、それをうまく捌ききれないまま子どもたちに提供してしまったことが何よりも悔しくてたまらなかった。

こうして私は深い失意の底に沈んでいったのである。


◇「はじめては しっぱいするんだよ。」


しかし落ち込みすぎてはいられない。「先生、運動場で鬼ごっこな!」と言い残して、子どもたちが待ちきれずに外へと駆け出した。待たせるわけにはいかないし、子どもたちには次の授業もあるのだ。

そう無理やり思考を切り替え、急いで教室で教壇実習の後処理をしていた自分に、一人の児童が声をかけてくれた。

「せんせい、どうしたの?」

クラスのお姉さん的存在の彼女は、実習記録にペンを走らせる私の膝にちょこんと座りながらそういった。その顔はきょとんとしていて、不思議に思っています!というのがありありと表情に出ていた。

私は悟られまいとして、「授業の記録を書いているんだよ」と言いながら、ありったけの気力を集めて作った笑顔で返事をした。子どもに不安そうな顔を見せるなんて教員失格だと思ったから。

しかし、その時の私は酷く打ちのめされていた。だから、ついポロリとこう溢してしまった。

「道徳、楽しくできなくてごめんね。」

本当に小さく、囁くように口から言葉が漏れ出した。子どもたちに対する申し訳なさが、謝らないといけないと強く訴えかけたのかもしれない。

だが彼女はその言葉を聞き逃さなかった。そして、本当に、本当に不思議そうな顔で

「せんせい、はじめてやったでしょ?」

「なんでも はじめては しっぱい するんだよ。」

とニッコリに表情を変えながら、肩を叩いて言ったのである。


心が雷に打たれたように震えた。

「はじめては しっぱいするんだよ。」

他者の挑戦を許し、失敗を慰めることができる。その言葉を自分がかけてあげられるようになったのは何歳の頃だったか。

ましてこの子は小学2年生なのである。クラスメイトとの揉め事や、自分の思い通りにならないからといって駄々をこねる子も少なくない中で、一体何が彼女をそこまで優しくさせるのだろうか。

そう言葉を残した彼女は「私も運動場いってくる!」と言って走っていった。残された私は、しばらく言葉の意味を何度も反芻していた。


◇失敗を前向きに捉えることの価値


以後、私は少しずつ失敗を前向きに捉えることが出来るようになってきた。

教材研究も、より念入りに、より丁寧に作業を進め、子どもたちの世界に飛び込んでいく準備を整えていく。

授業が終わったら何が出来ていて、甘いところは何なのか徹底的にフィードバックして次に繋げる。実習用に用意したメモ帳は、いただいたアドバイスや自分の気づきを書いた文字で真っ黒になっていた。

自分の中で納得がいくまで準備を重ね、その結果が望むようなものではなかったとき、しっかりと失敗を受け止めて原因を考えること。生きる上で基本的なことだと思うのだけれど、光のように過ぎる毎日を生きる私たちはそのことを忘れ、失敗に臆病になりがちである。

失敗は自分の物事への向かい方、あるいは生き方をも見直す機会をくれる価値のあるものなのだ。そう気づかせてくれたのは、10年間追いかけてきた夢の舞台で出会った1人の少女だった。


はじめてはしっぱいする。

だから、つぎもチャレンジしよう。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

実習、本当に楽しかったです。







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