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事情に踏み込まない「予防としてのやさしさ」を行うコミュニケーションの時代。(社会学、心理学)

今、『六畳半の俺の家には、銀髪碧眼の後輩が住んでいます。』というweb小説を読んでいるのだが、現代コミュニケーションが如実に表れているなと気づいた。

私が過去に読んだ『お隣の天使様にいつの間にか駄目人間にされていた件』についても同じようなコミュニケーションをしていたと記憶している。

どちらも恋愛小説だがww

では、ここに描かれている現代コミュニケーションはどういうものなのか見ていこう。

精神科医の大平健によると、「治療としてのやさしさ」から「予防としてのやさしさ」へコミュニケーションが変容していると指摘している。

つまり、心の傷をなめあうやさしさ(共感)よりも、お互いを傷つけないやさしさ(無関心)が有効と認知される時代に変化したということだ。

これに似たものとして社会学者のゴッフマンの演技的行為論が当たるだろう。

結論を先に言うと、「人格=尊いもの」として、相手の人格を神様のように扱うという空気があり、それに従って演技しているというものだ。

ゴッフマンは人々の行為を舞台に例え、居合わせた人同士がする会話のやり取り=場面。やり取りしているものが何者なのか=役者として日常にある相互作用(人と人との関わり)を分析する。

そして、相互作用ではお互いの面子、名誉を気づ付けないように気を使っているのではないかと考えた。

つまり、「面子」「気づかい」を礼儀としてとらえている。この「礼儀」とは尊いもの、聖なるもの(神)に向ける振る舞い方のルールということだ。

社会学者デュルケームは「最近は、聖なるもの(神)は宗教ではなく、個人の心の中に存在するようになっている」と言った。

これを受け、ゴッフマンは「なら、今の社会では『聖なるもの=人格』として特別な振る舞い(演技)をするルールがあるんじゃないか」と言っている。

つまり、「神」にある尊いものとしての権威がなくなっていき、聖なるもの=尊いもの=人々の人格という構造になっており、それを対象に礼儀という演技を行う空気になっているということを指摘している。

まあ、敬遠したくなくても、「人格=尊いもの」として敬遠するという演技をしなければならないという空気があるということだ。

ゴッフマンはこの敬遠という演技の仕方を2つにまとめている。

①提示的儀礼
聖なるものに、何を差し上げたらいいのか。何をすべきなのかのルール、それに基づき演技する。
典型的な例は「挨拶」だ。顔を合わせたのに挨拶をしなければ相手の人格が損なわれるかもしれない。そこで利用されるのがあいさつで、それによって「あなたを受け入れますよ。」「あなたを承認しますよ」というメッセージを伝えて演技している。

②回避的儀礼
聖なるものに対して、すべきでないことのルール、それに基づき演技する。
典型的な例は、エレベーター空間での振る舞い(演技)である。エレベーターの中では「人の人格に対して、関心を持っていても、関心を向ける振る舞いをしてはいけない」という空気(ルール)がある。これをゴッフマンは「儀礼的無関心」と呼んでいる。

今回の小説では、ヒロインが過去に何らかのトラウマや嫌な思い出があるように描かれている。しかしながら、主人公は「トラウマがあるんだな」と感じると、気を使ってノータッチを決め込んでいる。

これは、ヒロインのトラウマや過去の嫌な思い出が気になる。(他の小説では「気にならないかと言われれば嘘になるが」というセリフがあったね)しかし、ヒロインの人格=尊いものとしても考えている。ならば、「私はそこまで興味ありませんから」というメッセージを「無理してしゃべらなくても大丈夫」という言葉に乗せて伝えている。いわゆる「儀礼的無関心」を装って、相手の人格を守るコミュニケーションをしていると分析できる。

参考文献
『よくわかる社会学』
『アウトプット大全』
『「対人不安」って何だろう?』

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