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【『逃げ上手の若君』全力応援!】㉑外道の行く世界…「地獄」について

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。  鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……? 〔以下の本文は、2021年6月27日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕 


 「地獄で鬼に触れ回れ 我らが主君は北条時行
 死蝋《しろう》にそう告げる弧次郎、すかさず亜也子の一閃!
 はて、では、その主君はというと、ウキウキ顔で瘴奸《しょうかん》を追い詰める……。手に汗握る展開の中にも松井先生らしいリズムの感じられる『逃げ上手の若君』の第21話。
 個人的には、死蝋が「お前らの頭の聖人面した諏訪頼重にゃ出来ない事だ」に吹き出してしまいました。頼重は、確かに君たちみたいな外道ではないけれども、決して聖人では……ない。第1話で時行が、光り輝く頼重のことを「この笑顔も偽り もう完っ璧に偽り」と見抜いていましたからね。
 しかしながら、それほど、死蝋の心は歪んでしまったのだと思います。もし死蝋が、瘴奸ではなく頼重に先に出会っていたら……そう思うと、子どもがどんな大人を通じて世の中を知るかは、とても重大なことであるとわかります。

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 さて、「地獄」という言葉を私たちは日常生活でも折に触れて使います。「非常に苦難な境地」〔広辞苑〕のことを意味しますが、もともとは仏教語です。

 六道の一つ。現世で悪業《あくごう》を重ねた者が死後その報いによって、落ちて、責め苦を受けるという所、またはその世界に落ちた者、あるいはその生存のあり方をいう。種類がいろいろあるとされ、等活・黒縄・衆合・叫喚・大叫喚・焦熱・大焦熱・阿鼻(無間)が八大地獄で、このそれぞれには四方の門外にまたそれぞれ四つずつの小地獄(別処とも眷属地獄ともいう)があり、このほか、八寒地獄、孤地獄などがあるという。また、閻魔大王《えんまだいおう》が死者の生前の罪を審判して、牛頭《ごず》、馬頭《めず》などの獄卒の鬼に命じ呵責《かしゃく》を加えるという。〔例文 仏教語大辞典〕
 ※六道(ろくどう・りくどう)…衆生(しゅじょう)が善悪の業によっておもむき住む六つの迷界(「衆生」とは、いのちあるものすべてを言う語)。
 ※呵責…きびしくとがめ責めること。責めさいなむこと。

 『角川古語大辞典』によると、「八大地獄」とは、「熱気による苦しみを受けることが多いと考えられ、八熱地獄(はちねつじごく)と呼ばれることもある。名称だけでなく、所在についても諸説あり、通常は、等活地獄を最上層として、順次地底深くに存在し、無間地獄が最深部に配置されると考える」とありました。
 以下、それぞれの地獄について『角川古語大辞典』より引用してみました(「大叫喚」と「大焦熱」については項目がありませんでしたが、それぞれ「叫喚」「焦熱」の十倍の増しの苦しみがあるようです)。

【 等活地獄(とうかつじごく)】
 「等活」は、いっしょに生き返るの意。閻浮提(えんぶだい)の地下一千由旬の所に、縦横一万由旬の広さであり、殺生の罪を犯した者が落ちるという。ここに落ちた罪人は互いに骨になるまで肉を搔き裂き争い、獄卒により粉々に砕かれるが、活風が来ると生き返り、受苦を繰り返すという。「想地獄」ともいう。

 ※閻浮提…仏教の世界説で、人間の住む世界。現世。
 ※由旬(ゆじゅん)…古代インドの距離の単位。1由旬を約7マイル〔=1マイルは約16,093キロメートル〕または9マイルとするなど、諸説がある。ゆうじゅん。

【 黒縄地獄(こくじょうじごく)】
 熱鉄の縄で縛られ、熱鉄の斧で切り裂かれる所で、殺生(せっしょう)・偸盗(ちゅうとう)の人が落ちる地獄。『往生要集・大文一』に「黒縄地獄とは等活の下にあり。…獄卒、罪人を執へて熱鉄の地に臥せ、熱鉄の縄を以て縦横に身に絣(すみなはをひ)き、熱鉄の斧を以て縄に随ひて切り割く。或は鋸を以て解(さきわ)け、或は刀を以て屠り、百千段と作して処々に散らし在(お)く。また、熱鉄の縄を懸けて、交へ横たへること無数、罪人を駈りてその中に入らしむるに、悪風暴に吹いて、その身に交へ絡まり、肉を焼き、骨を焦して、楚毒極りなし」とある。

 ※偸盗…人の物を盗み取ること。
 ※往生要集(おうじょうようしゅう)…平安中期、源信の記した仏教書。極楽往生に関する経文を集め、浄土思想をおしすすめた。

【 衆合地獄(しゅごうじごく)】
 殺生・偸盗・邪淫(じゃいん)の罪を犯した者が落ちる所とされ、鉄の山、鉄の臼と杵、赤銅の川、剣の山、刀葉林などで罪人をいためつけるといわれ、さらに十六の別処(べっしょ)を持つ(往生要集・大文一)。

【 叫喚地獄(きょうかんじごく)】
 殺生・偸盗・邪淫・妄語(もうご)・飲酒の五戒(ごかい)を犯した亡者が、熱湯・猛火の呵責に堪えず、号泣・叫喚する所。

 ※妄語…うそをつくこと。

【 焦熱地獄(しょうねつじごく)】
 『往生要集・大文一』に、「大叫喚の下にあり」とし、「獄卒、罪人を捉へて熱鉄の地の上に臥せ、或は仰むけ、或は覆せ、頭より足に至るまで、大いなる熱鉄の棒を以て、或は打ち、或は築いて、肉搏の如くならしむ。或は極熱の大いなる鉄鏊の上に置き、猛き炎にてこれを炙り、左右にこれを転がし、表裏より焼き薄む。或は大いなる鉄の串を以て下よりこれを貫き、頭を徹して出し、反覆してこれを炙り、かの有情の諸根、毛孔、および口の中に悉く皆炎を起さしむ。或は熱き鑊(かま)に入れ、或は鉄の楼に置くに、鉄火猛く盛んにして骨髄に徹る」などとし、「殺・盗・婬・飲酒・妄語・邪見の者、この中に堕つ」としている。

【 無間地獄(むけんじごく )】
 (阿鼻・阿鼻旨)の意訳。のちには「むげんじごく」ともいい、誤って「無限地獄」と書くこともある。閻浮提(えんぶだい)の下、二万由旬にある極苦の所で、間無く苦を受けるの意。『往生要集・大文一』に『観仏三昧経』を引き、「五逆罪を造り、因果を撥無し(=因果ノ道理ヲ否定シ)、大乗を誹謗し、四重を犯し、虚しく信施を食べる者、この中に堕つ」とある。この地獄は七重の鉄城と七層の鉄網に囲まれた阿鼻城の中にあり、六十四の眼を持ち、猛火を出す角を備えた八つの牛頭を頂く獄卒など怪奇な者たちが罪人を責める。その責め方は罪人を大きな熱鉄の山に繰り返し上下させたり、舌を引っ張り出して百の鉄釘で張り広げたり、熱鉄丸を口中に入れて五臓六腑を焼く、といった悲惨なもので、他の七大地獄の苦しみを合わせても、この地獄の苦しみの千分の一以下だという(往生要集・大文一)。

 「五逆罪を造り」とは、父や母、最高位の修行者である阿羅漢《あらかん》を殺すこと、僧団の和合をこわすこと、仏の身体を傷つけることを言います。「大乗を誹謗し」とは大乗仏教をけなしたり悪口を言ったりすることです。「四重を犯し」とは殺生・偸盗・邪淫・妄語の禁戒を犯すこと、「虚しく信施を食べる」とは信者がお寺の仏様や僧侶に捧げたお布施(供物)を理由もなく食べてしまうことです。
 征蟻党の外道たちはどうでしょうか。
 「四重を犯し、虚しく信施を食べる」は、ほぼ確実ですね。「大乗を誹謗し」もしています。第18話の「南無阿弥陀仏 こう言っときゃ仏様が全て罪をチャラにして下さる 便利だろ」「ヒハアアア 仏最高ぉぉぉぉぉ」が、ずばりそれに相当します。
 「五逆罪を造り」は、これまでのストーリーの中ではわからないのですが、「衝撃の事実を教えてあげよう」「仏さまはねいないんだよ」の瘴奸の思考自体がすでにアウトな気がします。

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 子どもの頃に(もう四十年くらい前になるのでしょうか。昭和の最後の頃です)、どこでどういういきさつでかは忘れましたが、家族や親戚の人たちと地獄絵図を見に行ったことがあります。
 あまりに恐ろしすぎて、その晩はもちろんのこと、しばらくその絵を思いだしておびえていました。人としてダメなことは絶対にダメなんだということが身に染みた体験でした。
 今回は「六道」には触れませんでしたが、中世の人たちの多くは、仏教の世界観にもとづき、今この身体を持って生きている世界だけで、命というものは〝終わらない〟と信じていたのです。
 現代人の多くは、死ねばそれだけ、終わりという考えがほとんどだと思います。瘴奸たちもそうなのかもしれません。ですが、見方を変えればその思考法は、刹那的な、単なる刺激であるとも言える快楽に身を任せる生き方につながっているとは考えられはしないでしょうか。非科学的・非合理的な〝地獄がある〟という考えが、それゆえに〝劣っている〟とは言い切れないと思うのは私だけでしょうか。

 ここでふっと思い出したのが、第1話の諏訪頼重のセリフです。

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 「地獄の底までお仕え致しましょう
 イケメン顔の少ない(?)頼重のカットの中でも、これまでで最も真顔で整った表情のひとつだと思います。
 この記事を読んでいる皆さんの多くは、歴史的な事実としての頼重の最期をすでにご存じなのかもしれません(そうだとしても、ここではそれはまだ明かしません)。鎌倉から時行を連れて諏訪にかくまう意味、そしてそれが「地獄」への道のりである覚悟を、頼重はすでに抱いていたゆえのセリフだとしたら……。
 私は、『逃げ上手の若君』の頼重には、自分の未来(最期)が見えているのではないかという推測をして作品を読んでいます。それを思うと、時行や子どもたち、家臣や領民と接する日々が、生きている時間の一瞬一瞬が、頼重にとっては尊い輝きを放つかのようではないかと想像されるのです。……まあ、頼重は作品の中でしょっちゅう輝いてますけどね。

〔参考とした辞書・事典類は記事の中で示しています。〕

 

 私が所属している「南北朝時代を楽しむ会」では、時行の生きた時代のことを、仲間と〝楽しく〟学ぶことができます!


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