「社会的軽症者」という呪縛

あくまで私に対してだけ適用される概念

「社会的軽症者」とは,あくまで私の中での概念で,他の人に対してこれを適用することは一切ありません。
むしろ,他の人は絶対こんなふうになってはいけないと思っています。

「社会的軽症者」とは

そのまんまです。
友人や家族など周囲の人から見て「つらそう」「苦しそう」などなど,そう見えていたとしても,社会からはそう見えない「軽症」な人のことをいちいち説明するのが面倒なので,自分の中で「社会的軽症者」と呼んでいます。

「社会的軽症者」から抜け出せない理由

友人からは「十分つらそうに見える」「すごく苦しそう」「軽症だって暗示をかけるのはやめたほうがいい」などなど言ってもらえます。
ただ,私が社会的軽症者から抜け出すことはできません。
抜け出した瞬間,私自身も,私の人生も,すべてが否定されて粉々になってしまうからです。

何が私を「社会的軽症者」にしたのか

1.虐待を見過ごされたこと

どうも沢田が虐待されていたらしいことは,以前記事にしました(詳しくはこちら)。
虐待は簡単に言うと,2つに分けられると思います。
1つめ,幼少期から母親が父親に殴られたり,蹴られたり,殺されかける場面を何度も見てきました。
そのたび弟が警察に通報しては警察のお世話になる,というのを繰り返していました。
2つめ,病院に行くことを禁止されていました。
母親の前では具合の悪い素振りを見せると怒鳴りつけられていて,隠れて吐いたり,電話で対処方法を聞くなどしていました。
精神的に参っていたときに保護司さんを頼って病院に行きましたが,それも母に怒鳴りつけられたため,治療は受けていません(私の母親についてはこちらの記事が参考になるかも)。
もし社会的に認められるほどの虐待であれば,おそらくこの時点で何かしらの救済があったはずですが,ありませんでした。

2.どんな手段を使ってでも教室に通わなければならなかったこと

そのままです。
私は教室に通うのがなぜかすごく苦痛だったようですが,「(病院に通っているなどの)正当な理由がない」ということで,何が何でも学校に行けば教室にいなければなりませんでした。
母親は具合が悪いと怒鳴りつけてくるので,学校に行かない=具合が悪いになるので,「学校に行かない」という選択肢はインフルエンザなどでない限りありません。
先生も,「教室に通うことを幸せだと思いなさい」と言っていたので,私はできる限りの手段を駆使して教室に通いました(こちらの記事が詳しいです)。
ここでも,もし社会的に認められる何かがあれば,無理をして教室に通うことはなかったでしょう。

3.どんな手段を使ってでもフルタイムで働かなければならなかったこと

上と似ていますが,一応別にしておきます。
社会人になってから,友人の勧めで親には知られないように,こっそりと病院に通うようになりました。
そこでどうも双極性障害がありそうだということが分かってきて,教室に通っていたころと同様に,自傷行為をしながら働いていて,むしろ自傷行為をしないと働けないと話す機会がありました。
先生曰く,「自傷行為などがあっても特に問題ないのでそのままフルタイムで働き続けてください」ということでした。
「自傷行為」というとどうしても周囲は心配になってしまいます。
私自身も,どんなに軽い自傷行為(例えば,ODであれば処方量にたった1錠足しただけ)だったとしても,自傷行為と聞くと,とても心配になります。
ただ,自分自身がやるぶんには特に問題は感じていませんし,お医者さんとしても特に問題ない行為だということです。
もし問題があれば,ここで何かしらの措置が取られるはずです。
つまり,自分の体よりも大事なのは,フルタイムで働き続けて,社会のために税金や年金を納めることだということです。

4.労災認定されないということ

この記事を執筆している時点(2021/6)の話です。
この点は今後変わる可能性もありますのでご了承ください。
上記の通り,私自身はフルタイムで働くのに何の問題もないとお医者さんのお墨付きをいただいています。
ただ,どうしても生理などと重なると体調を崩してしまうことがあり,そんなことをぽろっと会社の上司に話したところ,「その点を考慮してもらえるように社長にも話しておこう」となりました。
もう今月も10日ほどしかないぞというときに上司が社長に話したようで,その話が伝わってすぐ,「双極性障害があるから今月で会社を退職してもらう」と一方的に言われました。
それが原因で双極性障害とは別な病気を発症し,入院しました。
医師の診断では原因は「業務上のもの(一方的に退職を迫ったこと)」だと言われたため,どうすればいいのかを労基署に相談しに行ったところ,
「この程度では労災にはならないと思いますけど,とりあえず用紙だけあげますね」
と言われました。
社会的に見れば,「医者がフルタイムで働くのに何の問題もない」と言っていても,会社が持病を理由に退職を迫る行為は正当だということです。
もし正当でなければ,労災になることでしょう。

5.「病院に来られるのは迷惑だ」と言われたこと

そのままです。
もともと,母親から病院を禁止されていたこともあり,病院は何らかの理由がないと行けないものだと思っていました。
少し大げさですが,病院に行くには,何らかの手続きをして通院許可証などをもらう必要があると思っていました。
その考えから抜け出せておらず,今でも病院は「周囲から認められないと行けない」という考えがとても強いです。
なので,病院に行くことに強い罪悪感があります。
そんな中,先生から「こちらとしても病院に来られて迷惑している」という言葉をいただきました。
私のように,友人が「つらそう」「苦しそう」などというだけの人間が行く場ではないということを痛感しました。
やはり,病院は社会から認められないと行ってはいけない場所だったということです。

6.マイナスの感情は間違っていると言われたこと

これは中学の頃からずっとですが,「つらい」とか「苦しい」と思うことがありましたが,それは間違いだと教わってきました。
今は私の中に感情の審判をする子がいて,その子が否定してくるので,つらいとか苦しいとかを感じることはありません(というか,許されていません)。
先生からも,「あなたがつらいとか苦しいとか感じることがあっても,それは情に訴えかけたいだけにすぎない」と言われました。
やはり審判をする子の判断通り,仮にマイナスの感情を抱いたとしても,私の中ではそれは間違いだということを改めて知りました。
社会が認めてくれなければ,感情すらも間違いになりうるということです。

以上6点を総合して,私は友人などからは「つらそう」「苦しそう」と言ってもらえたり,心配してもらえるけれど,それらは社会には認められていないため,自分を「社会的軽症者」という枠組みに収めることにしました。

なぜ「社会的軽症者」に縛られ続けるのか

ごく簡単な話です。
認知的不協和が心理的な負荷になるからです。
認知的不協和とは,ごく簡単に,語弊を恐れず言ってしまえば,実際の行動と自分の中の考えに,ちぐはぐさがあることをさします。
1番の虐待を見過ごされたことを例に取ると,
「虐待されていた」ことを認めてしまえば,社会的に何も措置が取られなかったことはおかしい事に気が付きます。
ただ,その「おかしい」を抱えることは,とても心理的な負荷がかかります。
だから,「専門家の方や友人が虐待されていたという事実を認めていても,社会に認められなければそれはないものとされる」と考えています。
それを解消するために,私は「社会的軽症者」の枠組みの中で生きている。
ただそれだけのことなのです。

他の人がこんな目に遭わないことを祈り続ける

繰り返しになりますが,これは私にだけ適用される概念です。
いろいろな人が私につらさ,苦しさを話してくれます。
そんな存在でいられることは,私の誇りです。
つらい,苦しいなんて,人からすれば弱みにもあたるでしょうから,そんな姿見られたくないでしょうし,なかなか話せないですものね。
私は否定されてしまいましたが,誰もあなたの感情を否定していい人はいません。
あなたが感じるつらさ,苦しさetc...は,どれも正しいものです。
あなたがもし私のような目に遭っているとすれば,そのつらさや苦しさから助け出されなければならないと私は思います。
私はここで助け出してもらえることを祈ることしか出来ません(本当に心苦しいです)。
どうか,他の人がこんな枠組みに収まることがありませんように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?