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啓発していない言葉がほしい。

自分を信じられないのは痛みだ。

自分を見失い、いつも胸に宿っていた熱いなにかは、いつの間にか跡形もなく消えて。

ひとことで言うならば、「消耗」した自分がそこにいた。

※本日、内面とろ(吐露)系です————



私たちはいつ、純粋に夢見ていた、明るい未来への希望を失ってしまうんだろう。

諦めと対峙して、負けてしまうようになったのは、いつからだろう。


私は、理想が高い。

自分自身に求めるハードルが、きっと高い。

できて当たり前で、出来なければ自分を責め、完璧に至らなければ全てが無に感じる。

できること全てやって、やり尽くしたと思えたところがようやくスタート地点で、それ以外は全てマイナスだ。

出来なければ意味がないし、そこにどれほどの時間をかけたり、手間をかけたかなんて関係ない。

クオリティが全てで、結果が全てだ。


そんな私は、自分を褒めるに至る、ものごとが少ない。

当然だ。完璧に出来なければそれは、できないも同然で、私はなにもしていないに等しいのだから。

だから、初動が重くなる。完璧にやらなければと思うから、固くなり、力が入り、一歩目が遅くなる。

なにより、自分から責められることが怖い。絶えず自分の内側から感じる、じわじわとした痛みのある何かが、心を痛めつけていく。


自分から責められるのが怖い。ほんとうは誰より、何よりもこわいんだ。

太った自分を鏡で見つめるとき、SNSで見るスターと自分を見比べるとき、できなかったものをあげつらい、自分を自分でバッシングするとき。


私たちは、自分自身の欠点を、きらいな所を、誰よりもよく自分が一番わかっている。

だから、自分が一番傷つく言葉を、ナイフで切り付けるように何度もなんども、自分自身に対して投げつけて、切り刻み、心を傷だらけにしてしまう。

自分に振りかざしたナイフは、恐れから臆病な自分を生み、何にも挑戦できない無気力な自分を生み出す。


自分から絶えず責められ、なじられ、否定され。比べられて傷つき、劣っているように感じ、また傷つき、を繰り返していくうちに

自己否定が募り、自尊心を失い、生きてる意味なんてないと、どっぷりと自己憐憫の諦めの海に浸かってしまうのは、当然のこととも思える。


できない自分を受け入れよう。ダメな自分を認めてあげよう。出来ないところより、できる部分を探して。。

などと、同じような言葉が並ぶ書店の棚をみて、何だかがっかりと消沈する。

正しい、とそんなこと分かっている。でもその正しさからあぶれた人たちは、どこへ行けばいいんだろう。

何をよすがにすればいいんだろう。


そんな時、ひっそりと落ち込んで、意味もなく昏い曲をきいたり、誰かの悲しい文章を読んでみたくなる。

正しさなんていらない。何かを啓発していない、ただそこにある誰かのいたみや傷、悲しさに触れていると、何だか安心する。


昔はもっと正しさを説くものが好きで、はっきりと答えを教えてくれるものを好んでいた。成し遂げた誰かのことばを、丸ごと信じさせてほしかった。

けれど、いつしか正しさに疲れて、正論を乾いた笑みで受け流すようになった。

それよりももっと、同じ温度で読める、生身の人間のじめじめと湿った文章を、心地よいと感じるようになった。


だから今、こんな文章を書いているんだと思う。

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