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長崎異聞 25 I 暗々裏

  円卓に地図が開かれた。
 清国の地図ではあるが、細密さに欠けて、かつ空白の地域も多い。
 眼前のこの地図ですら、清国外では機密事項なのだろう。
 村田蔵六はその地図に指を走らせている。
「清という古き年老いた帝国はな、これだけの国土を得ながら耕作地が少ない。砂漠と密林に挟まれてその僅かな国土を、血を血で染め上げるような戦さして恥じることのない連中よ」
 彼の指は黄河下流流域と長江流域を示している。
「・・耕作地があるのはこの辺りだがな、藩鎮はんちんという独立した軍閥が割拠しておる。まあ戦国大名が乱立した時代を思わせるな。よって紫禁城に充分な年貢が集まってはおらぬ。足利様むろまちばくふなみの台所事情よ」
 指先が北京の内海となる渤海湾を差して、それを衝立のように防ぐ二つの半島に伸びていく。
「しかも皇帝は嗜好品を輸入に頼っておる。蓄えた財貨を二束三文にしながらな。それで真綿で首を絞められる如くに欧州に取り込まれておる」
 地図を動かして一気に大陸の南端に説話は及ぶ。
「ここでな、もうひと昔前だが、英吉利に攻められて清は南方の拠点、香港と九龍半島を失った。得たものはかの国が撒き散らした、阿片による廃人の群衆よ」
「では清国というのは・・・」とユーリアが翠の眼で蔵六を覗き込んだ。鈴が奏でるような透明な声音、柑橘系の芳香が醍醐の鼻孔を擽ってくる。
「張り子の虎にも値しない。この日の本が一丸となり得れば、単独でも勝てるだろうな。しかし戦さというものはな、裏打ちする一手を獲得してから始めるものだ」
 村田蔵六、官位であれば兵部省大臣がこんな民家で、国家の大業を暗々裏に語ろうとしている。
「しかしながら大事な港がある。この天津だな。何しろここから北京の紫禁城まで嗜好品を納めなくてはならぬ。護りは当然の如く、固い」
 指先が渤海湾の正反対側の、小指にも似た細長い半島に向かう。
「して英吉利にはこの遼東半島を獲って頂く。特にこの旅順港な。それで北部から垂涎の思いで狙っておる、露西亜はもう手が出せない。さらに清にとっても喉元に匕首の如く、いい様に締め上げられる。今の日の本では清と露とを相手に事を構えるには危うし、危うし」
「益次郎殿、それで我が国の得る利は?」
「脇腹より戦さに参入して、この遼東半島の水利、上水道の敷設権とその工事を得るのよ。かの葵神君とくがわいえやすの大業にて、江戸では上水設備の整った稀有な都市であった。さらにこの長崎では欧州に倣った堰提ダムによる浄水設備において、彼らも我らの実力をよく知っておる」
「まあお疲れ損の下働きに終わりそうですこと」と大浦お慶が、天井を仰ぎ見て嘆息した。
「そうでもないさ。水利を獲得するということは、その居留民達の生命線を握るということよ。つまり英は結果として自国民を人質を差し出したも同然」
 つまりその戦場において、軍を預かるのは西郷隆盛公ということだろうか。座して聞いている橘醍醐の、武士の血がたぎり始めていた。

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