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想像力の欠如

ネット上でさまざまな悪意を見掛けてしまい、非常に落ち込んでいる。自分が攻撃されたわけではない。だが、誰かが悪く言われている場面を見るだけでつらくなる。自分がもし同じことをされたらどうなるか、を考えてしまうからだろうか。それもある。加えて、「なぜ人が人を傷付けてしまうのか」を考えると、苦しくなるのだ。

自分が他人から傷付けられることは痛く、悲しい。なのになぜ、それを他人に対して行ってしまえるのか。私はその原因を「想像力の欠如」だと思っている。自分の行為がどのように他者に影響を与えるのかが想像できないのではないかと。

人はいろいろな体験をするうちに、これを行うとこうなるといった推測ができるようになる。そういった推測を何度も行って結果を見ていくうちに、実際に行動しなくてもその結果が推測できるようになる。他者の言葉や本に書かれた文章などからも知識を得ることで、推測力は向上していく。

想像とは、経験や知識を元にした推測の一段先にある思考だろう。まだ起こっていないことがどうなるかを頭の中に思い描く。「空気を読む」や「行間を読む」は想像力で行うことだ。何かを行ってみて「こんな大変なことになるとは思わなかった」となるのは、想像力の欠如から来る。

この想像力は、初めから誰もが豊富に持っているものではないように思う。「これはどういうことか」と疑問に思ったり、「それについてもっと知りたい」と好奇心を募らせたりすることから、想像力は育っていくのではないか。なので、想像力が育っていないという事実の背景には、疑問や好奇心を持つことができなかったり、持ったとしても表明することができなかったりといった、何らかの不許可があったのではないかと思う。

その不許可は、本人が行うことではなく、周囲の人々や環境によって起きることなのではないか。つまりは、想像力の欠如は本人だけの問題ではない。だから、想像力の欠如によって人を傷付けている誰かを見掛けることで、私はその人が想像力を育むに至らなかった理由を考えてしまい、悲しくなるのだ。もしも誰かが、あるいは何かが、その人の想像力を増す助けになれていたらと、思っても仕方のないことだが、考えてしまうのだ。

どうすれば、もっと多くの人の中で想像力が育ち、多くの人が傷付けられることのない、不幸ではない状態を作ることができるのだろうか。脳天気だと言われようとも、私は、多くの人が自分の思う幸せな状態で生きていける世界が良いと思う。


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