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続ける勇気

最近、ちょっとした不運な事故に巻き込まれ、委託していた保険会社に対応を依頼したのですが、マニュアルや慣習に沿った対応しかしてもらえず、さらなる不運を招きかねない状況になってしまいました。

このままでは、まったく不公平で理不尽な結果になりそうな予感がしたので、人任せにせず、できることは何でもしようと行動を起こし始めたところ、幸いにも助けてくれる人が現れました。

おかげで理不尽な目に遭うことは避けられましたが、人間の行動について、様々なことを考えさせられる経験となりました。

とりわけ、「知識がないために相手の意のままに行動してしまうことの危うさ」と、「いかに多くの人が慣習に縛られた世界に浸かっているかという現実」を思い知らされました。

また、世の中には「困っている人をサポートする専門家」という肩書きは名ばかりで、「面倒なことや損なことはしたくない」「お金さえもらえれば、人の不幸や不運はどうでもいい」という非常に残念な意識を持って働いている人が少なくないという現実も目の当たりにしました。

一方で、「正義が貫かれていない」という状況を当たり前のこととして受け入れている人がいかに多いかを改めて知る機会にもなりました。

そんな時、私の閉塞感に一筋の光を当て、困難にひるむことなく戦い続ける勇気を与えてくれる一本の映画と出会いました。

それは2017年の戦争ドラマ映画『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男(原題:Darkest Hour)』です。

1940年、西ヨーロッパ諸国はヒトラー率いるナチス・ドイツに次々と占領され、崩壊寸前でした。

フランスとともにドイツの侵略に抵抗してきたイギリスでしたが、ドイツのフランス侵攻後、英国政府内には、軍事力ではるかに勝るドイツにはかなわないとして、ドイツに対して宥和政策に転じるべきという声が高まっていました。

宥和政策とは、敵国の主張をある程度受け入れ、話し合いによって自国に有利な解決を図ろうとする政策です。

実質的にはイギリス本土の防衛が目的であり、ヨーロッパ大陸が侵略され崩壊しても、イギリスが侵略されないことを最優先し、ある意味ドイツの言いなりになることを前提とした消極的な政策でした。

チャーチルの政敵の一人であったハリファックスらはドイツとの宥和政策を推進しようとチャーチルに強く迫ります。

ところが、首相に就任したばかりのチャーチルは、宥和政策に強く反対します。

彼の目的は、自国の安全を守るための宥和政策を成功させることではなく、「ナチズム」という根本的な悪そのものを打ち負かすことでした。

以下は、チャーチルが首相として初めて議会で行った演説の一部ですが、彼の熱い思いが伝わってきます。

私が差し出すことができるのは、血と労力と涙と汗だけだ。
我々には、大変過酷な試練が待ち受けている。
我々の前には、長い長い格闘と苦悩の月日が待ち受けているのだ。
我々の方針は何かと聞かれれば、私はこう答えるだろう。
海、陸、空で、神が与えてくれるすべてのパワーを結集して戦うこと、人類の犯罪史上、類を見ない最も凶悪な暴虐行為と戦うこと、それが我々の方針だ。
我々の目的は何か、と問われれば、一言で答えられる。
それは勝利だ。いかなる犠牲を払ってでも勝利すること、いかなる恐怖にも打ち勝つこと、たとえ道のりが長く険しくとも、勝利することなのだ。
勝利なくして、生き残ることはできない。
_ウィンストン・チャーチル

『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』より
翻訳:ヴィ―トリスバッハさゆり

チャーチルは、抗戦するフランスを支援するにあたり、ラジオを通じて国民にこう語りかけます。

英仏両国民は互いに協力し、史上最も卑劣で、魂が破壊されるような暴虐行為から、ヨーロッパのみならず人類を救うために歩みを進めてきました。
(中略)
しかし今、私たちは一つの絆で結ばれています。それは、勝つまで戦い続けるということ、そしてどんな犠牲や痛みがあろうとも、決して奴隷になったり屈辱を受けたりしないということです。
(中略)
私たちは打ち勝たなければならず、必ず打ち勝つのです。
_ ウィンストン・チャーチル

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』より
翻訳:ヴィ―トリスバッハさゆり

映画の中には、事実に基づいたシーンだけでなく、実際の出来事から着想を得たと思われるフィクションのシーンもあります。

中でも印象的だったのは、宥和政策を受け入れざるを得ない状況に追い込まれ、すっかり意気消沈していたチャーチルに、妻のクレメンティ―ンが励ましの言葉をかけるシーンです。

あなたの肩には、世界中の重荷が乗っている。
でも、あなたの内なる戦いは、この時のためにあなたを鍛えてきたのよ。
あなたは完璧じゃないからこそ、強い。
あなたは迷いがあるからこそ、賢い。
_ クレメンティ―ン・チャーチル

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』より
翻訳:ヴィ―トリスバッハさゆり

チャーチルは偉大で尊敬される人物と思われがちですが、実は彼もまた、何度も道に迷い、多くの失敗を経験した「一人の普通の人間」でした。

彼が語ったこの言葉は、彼自身の体験からくるものであり、重みがあります。

成功したら終わりでもないし、失敗したら終わりでもない。
大切なのは、続ける勇気だ。
_ ウィンストン・チャーチル

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』より
翻訳:ヴィ―トリスバッハさゆり

国王や仲間の支持を得て、断固として戦う決意を語ったチャーチルの国会での演説は圧巻です。

ヨーロッパの広大な土地と歴史ある名だたる諸国が、ゲシュタポをはじめとするナチスの忌まわしい組織の支配下に置かれたとしても、我々はひるむこともなければ、たじろぐこともないだろう。
我々は最後までやり遂げる。
我々はフランスで戦うのだ。
海辺で、大海原で戦う。
空では、さらなる自信とより一層の強さをもって戦う。
どんな犠牲を払おうとも、この島を守り抜くのだ。
我々は砂浜で戦う。
上陸地点で戦う。
原っぱで、街中で戦う。
野山で戦う。
われわれは決して降伏しない。
そして、ありえないことではあるが、もしもこの島またはその大部分が征服され、飢えに苦しむようなことになったとしても、わが帝国は、海を越えて、武装した英国艦隊に守られながら、闘い続けるだろう。
そしてやがて、新しい世界が、そのあらゆるパワーと威力をもって、古い世界の救済と解放のために歩み出すのだ。
_ ウィンストン・チャーチル

『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』より
翻訳:ヴィ―トリスバッハ

世界中の多くの人が抱える課題のひとつに、「自分さえ良ければ、他人はどうでもいい」という思考に陥り、心の底では何が正義か分かっていても、前例のないこと、あるいはリスクを負うことや 犠牲を払うことを拒否し、その結果、受け身でエゴイスティックな振る舞いを選択してしまうことが挙げられます。

とはいえ、どんな人でも人生において、受け身でエゴイスティックなままではいられない場面に遭遇するものです。

そのような場面で、自分が選んだ行動が「善」なのか「悪」なのか、常に試されているとしたら、あなたはどう思いますか?

人類の長い歴史の中で、宗教や哲学、思想が生まれるずっと前から存在する形而上学(けいじじょうがく)において、善と悪は次のように明確に定義されています。

悪の定義:
1. 他人に危害を加えること。
2. 他人の選択の自由を奪うこと。

善の定義:
悪ではない選択すること。

ただし、危害を加えられた場合は、もちろん全力で戦って身を守らなければなりません。それは悪に「No」を突きつける行為だからです。

もしあなたが「関わりたくない」「リスクを取りたくない」「自分にとって都合のいいことしかしたくない」という理由で、目の前で他人がやっている悪(他人に危害を加える、他人の選択の自由を奪う)に対して何もせず、見て見ぬふりをしているなら、それは間接的にでも悪に加担している行為ではないでしょうか?

人類の犯罪史上、類を見ないナチスの極悪非道な暴虐に対して、「ひるむことなく最後まで戦う」というチャーチルの強い意志と姿勢は、形而上学で定義される「善」と「悪」を知る者の行動「FORCE」そのものを体現していました。

ちなみに、形而上学が実際に何を意味しているのかは、インターネットで検索しても出てきませんし、一般の学校でも教えてくれません。

それは、人類の歴史の中で長い間、意図的に隠されてきた知識だからです。

人類にとって最も価値のある知識は、一般大衆にもたらされることはなく、王族、貴族、聖職者など支配階級に属する一部の人々だけに独占されてきました。

歴史上の名だたる人物たちが習得し、チャーチルも間違いなく学んだであろう秘伝の知識としての形而上学は、20世紀末にようやく「ノーモアシークレット」として一般公開され、今では日本を含む世界60カ国以上に広がり、その習得を希望する人は目覚ましい勢いで増え続けています。

宗教や思想、従来のスピリチュアルなものから距離を置いている人でも、例えばこんなことを考えることがあるのではないでしょうか。

「科学だけでは説明できないことを知りたい!」
「左脳と右脳の働きの謎を知りたい!」
「人はなぜ生まれ、なぜ生き、死んだらどうなるのか知りたい!」

形而上学についてもっと知りたい方は、以下のリンクをクリックして、その好奇心の扉を開いてみてください。

この記事の英語版はこちらです。


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