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ACT.51『あの感情へ、一歩』

清らかなる朝に思いを

 安平町・追分を出発する時がやってきた。早朝の時間には送迎や朝食のサービスはないので、そのまま布団を戻して駅に向かって歩く事になる。
「もう少し、話をしていたかったものだな…」
と感じながら、車で登ってきたであろう道を歩いた。
「こうなっていたのか、北海道らしいなぁ」
と思いつつ、傾斜の続く大地を踏み締めて駅に向かう。国鉄の思いを共有できる数少ない人だったが、次にこうした世代の人に再会できるのはいつになるだろうか。そんな事も思っていた。
 ここから、今回は室蘭本線や函館本線を経由してそのまま旭川市内に向かっていくのが目標だ。しかし旭川といっても、まだまだ道のりは言葉にすれば平坦だがまだ遠い。列車に委ねて、どれだけかかるのだろう。

 そのまま、宿泊した宿から歩いていると駅付近で線路を交差した。2本に続く線路が室蘭本線。そして、1本の線路が道東を貫いて走るシャトル要素を持つ北海道交通の要、石勝線だ。この石勝線にて前日は安平町・追分に入ったが今回乗車するのは室蘭本線。国鉄で最後まで定期旅客蒸気機関車が走行した場所である。そして、語るに欠かせない場所として挙げておくのであれば『日本有数の直線が続く線路を持つ路線である』事であろうか。
 そして、この線路を交差して道なりに歩き。追分駅に戻ったのである。

鉄の見送りを背にして

 追分の駅前に下車すると、様々な『蒸気機関車の要素』にて歓迎される。本当にこの街は『蒸気機関車の聖地』として多くの人に愛され、国民中を巻き込んだSLブームに火を付けたのだと感じた。
 この駅前から続く長い道は『SL街道』とも語られる安平町を象徴しているメインの道だ。しかし、この場所に関しては後に向かう事になる。
 撮影したのは、D51形機関車の動輪だ。465号機という事であり、車両としては追分と小樽築港で活躍した機関車だそうだ。そして、そのD51-465を支えているレールについては明治期に阪鶴鉄道にて使用されたレールとあり、これまた北海道で見かけるには中々珍しいものであった。
 阪鶴鉄道というのは尼崎から福知山方面に至って明治期に建設された鉄道であり、現在の福知山線の土台を築いた鉄道路線でもある。車両はアメリカ・ドイツ製の輸入蒸気機関車を主に使用していた。

 そしてもう1つ。追分には蒸気機関車の置物(?)らしきものがあり、この置物もまさに『蒸気機関車での発展』と『蒸気機関車への敬愛』…と多くの要素を感じる事が出来るものだった。
 もし、火災がなく追分の蒸気機関車の生きた跡が機関区として生存していたらどのようになっていたのだろうか…とこうしたものを見て思い感じる事が時々にある。
 しかし、現在は追分の町で蒸気機関車は様々な形態で街のキャラクターとして貢献し、駅に行き交う人々を出迎えている存在になっている。
 なお、この置物になっているD51-320は実在するD51形であり、現在でも追分駅から先の『あびらD51ステーション』にて保存されている蒸気機関車だ。
 こうした鉄の礎に背中を押され、自分は室蘭本線に乗車すべく駅に入っていくのであった。

探訪、追分駅

 追分の駅に入るとDF200形の貨物列車が停車していた。中線に停車し、信号の開通を待機しているのだろうか。
 停車中であったが、機関車の次位の顔がしっかりと見えているので排気で汚れて勇ましい顔付きになっている対の顔がよく見えた。機関車としての仕事人たる姿か。朝の大地に、エンジンの乾いた音を鳴らして停車していた。
 北海道らしく、貨物列車もDF200形で。仕事にもまれて煤を纏った仕事人の顔に胸を打たれ、昨日あまり感じる事の出来なかったこの追分駅を感じようかとする。

 機関車後方に荷物積載がなかったので、機関車をじっくり眺めるべくホーム前の方に向かって進んでいった。
 本州では滅多にその姿を見ない(と言っても祖母関係で三重に行った時しかその姿を観察しない)機関車の撮影には、思わず記録の手が進んでしまうものであった。
 車両の下部には漢字1文字の区名札で『五』の文字が示されており、この機関車が長く五稜郭方面からの走行で仕事をしている事を感じさせられる。
 しかし、この機関車の姿を撮影し後に記録を整理して感じた事だが、このDF200形は何か欧州やロシア調(なんというかソ連圏っぽい)な空気を感じた。
 こうした車両たちの多さや、デザインの多種多様な感覚に感動を覚え北海道の鉄道旅は、少しずつ歩みを進めている。
 このDF200形は北海道を出ても三重県で撮影が可能な貨物用機関車なものであり、いつしか北海道に行きたくなった時。また、外国調な車両を撮影したくなった時には向き合ってみたい車両だと感じた。

 このDF200形には、『レッドベア』の愛称が授けられている。この愛称から、鉄道ファンや撮影者には『赤熊』の呼び名でも親しまれる貨物用機関車である。
 貨物用機関車として、その先に見据えているのは多くの信号機。
 かつてはこの場所に多くの貨物列車や石炭列車の長蛇の列が休息を取り。そしてまた、炭鉱の場所として列車の分水嶺にもなったこの追分の場所であるが、現在はこうして貨物列車の進路を掌りそして息継ぎの場所になっている。
 動力近代化によって、ディーゼル機関車の凸型標準の機関車、DD51形と比較して性能は向上したが追分に貨物列車の息吹は止まらない。

 貨物列車はもう少し停車しているようだったので、駅の各所を撮影して回った。
 その中でもお気に入りの場所。
 というか、追分の駅ではこの場所をよく見て欲しいと自分では思うのだ。現代語で言えば(口語的に)推しポイント…にもなるであろう。
 この昭和リゾート感覚が漂う看板。そして、国鉄書体(看板からも薫ってくる国鉄らしさがまた良い)の出口看板。そして、その下には『お い わ け』の表記がある。
 この3要素が凝縮された追分駅の改札を個人的には推したく、駅で時間が取れた翌朝には必ず撮影しようと心に誓っていたのである。
 と、この場所を撮影。観光客は多く集い、どちらかといえば道外の人に会う確率が高い時期にはなってしまったが、この場所には静かな懐かしの風情が漂っているのだった。
 国鉄時代には、この場所で民営化を目前にしつつも駅の美化運動などを実施していたと聞く。
 こうした美化運動や駅の綺麗になる様も、この看板たちは出迎えてきたのだろうか。

 しばらくそうした追分の昭和らしさに胸を打たれていると、跨線橋付近で列車の入線を感じた。
 カメラを構えていると、千歳市の方面から単行の気動車が入ってきた。石勝線の列車である。特急のイメージが濃く、高速運転で慣らしているイメージの濃い同路線ではあるが、普通列車も少なくして運用されているのである。
 車両は北海道ローカル線の標準型式車両であるキハ150形であった。千歳方面の他には、旭川や函館の方面でも活躍している車両である。
 この時になって自分ははじめての遭遇であったが、これ以降キハ150形には多く遭遇し北海道の標準気動車…ローカル線の堅実たる主役のイメージを抱くのである。
 車両としては何か白く真四角で、『豆腐』のような姿でもある。
 この車両は北海道標準のローカル線車両として活躍しており、千歳方面。そして函館・旭川に近い場所では多く見かける車両との事だった。
 しかし、この時の自分は
「北海道らしいのが来たか」
程度だったが、後によく見かけよく乗車する車両になるとは知る由もないのである。

どちらに行くのでしょう

 さて、ここからが本当の旅の開始である。
 列車がやって来た。車両は石勝線の車両と同じくキハ150形。豆腐のような形状をしていて、自分が乗車する方のキハ150形はどうやら2両で乗車する事になりそうである。
 と、注釈を忘れたのだが自分が今回旅を開始する路線は『石勝線』でのそのまま続き旅ではなく、『室蘭本線』に乗車しての旅路だ。
 しかし、この室蘭本線の旅路だが最初とは言えど思わぬ落とし穴のようなものを発見する。到着したキハ150形の行き先表示器を確認した。

 到着した2両のキハ150形の行先表示だ。
 岩見沢、は判別可能にしても『糸井』の文字が引っかかって来るのである。
「糸井って何処だ?」
自分の判断は急に鈍ってしまう。そもそも、糸井という地名・駅名が北海道にあったのをこの時点ではじめて知ってしまった。
 殆ど急な気分にて始めてしまった北海道鉄道旅。土地の大まかな事は記憶していても、その先に関してはあまり考えていなかったのである。
 と、追い討ちをかけるようにして次のイベントが追分駅に発生した。

 反対側のホームにも列車が入ってきたのである。
「え…どっちだ?どっちが正しいんだ?」
取り敢えず、行程上では
・先に栗山に行ければ良い
の予定でゴーサインを出していた自分。
 しかし、先に到着していた列車はどちらに向かうか分からない。
「ん〜、どっちが栗山にそのまま行けるのか…」
結局考えてしまった。
 しかも、この対になる列車と糸井行きの列車は奇しくも発車時間が同じという奇跡であり、
『どちらかに乗車していれば栗山に行ける』
状態だったのである。
「ん〜、わからへんけど糸井行きにしとくか」
そんな気分にて、自分はこの対として入線してきたキハ40形の普通列車には乗車しなかった。
 多分、書いている今の自分なら言うまでもなく運転士に
「すいません、この列車って栗山行きます?」
と糸井に向かう列車に質問しているだろう。
…アホか自分。

 対として入線してきた列車の編成は、キハ40形にキハ150形を併結した『混結』状態の列車であった。
「ん〜、キハ40は乗ってみたかったもんやな」
そんな気持ちにて、糸井行きに乗車する。しかし、この判断がバカを招くのであった。
 そのまま列車は追分を出てグングン加速。通学の高校生の中に混ざって、自分は栗山の駅に向かって意気揚々な旅路に向かう。
「ちょっと不安はあるけど、多分行けるわ、信じとこ、行ける行ける」
しかし、何駅過ぎても栗山に到着しない。
 遠浅付近で気がついた。
「あ、逆方向か…!!!」
キハ40形に乗車するチャンスもあったのである。
「何してんねや。もう…」
そのまま列車は日高本線・千歳線との合流を経て、苫小牧の町に入って行った。少しこの場所で早い休息にしよう。
 そして、もっと余談な話にしてしまうとこの先にキハ40形に乗車できる区間はなく、また乗車する事もなかったのである。なんとも虚しい判断だった…

 苫小牧に到着した。
 乗車した列車をここで改めて拝見する。
 車両はキハ150形2両。北海道・室蘭本線では標準的な編成である。
「豆腐のような車両だ」
と何回も表現を用いているが、この車両をよく見てみると前面の少し下部には角度が付いていた。積雪の対策などをしているのだろうか。
 この列車に乗車していた高校生たちはこの苫小牧で降車し、自分もその一団に加わる事になる。
 ある意味遠回りな形になってしまったが、少し手前の方角に戻って来てしまった。
 さて、この駅からどうしようかと言うのが自分の悩みであった。
 ちなみに、この列車が表示していた『糸井』という行き先の果ては、この苫小牧の先を行って青葉の次駅であった。あくまでも先に進行する事は出来ないようである。
 と、しばらくは自分の抜けた気持ちの穴を埋めるようにして、この駅で撮影の時間を挟む事にした。

ニッチなあなたへ・苫小牧のヤードにて

 この苫小牧には、何か国鉄や昭和のイメージをよく感じていた。吉田拓郎/落陽では
『苫小牧発仙台行きフェリー あの爺さんときたら
 わざわざ見送ってくれたよ』
と新たな旅立ちへ向かう、昭和の流浪の人間に捧げる詩が描かれ。
 そして室蘭本線で最後の力を振り絞って走る、C57-135の餞の走行シーンの映像を集めた北海道NHKの映像でも、この苫小牧には多くの鉄道車両が休んでおり昭和の情景。そして、自分にとっては切なさや夢の跡を閉じ込めた場所のイメージを持っていた。
 と、この苫小牧の線路は空白地帯となっていたわけではなく仕事をとうの前に終えて『疎開留置』されている車両がそこにはいた。
 キハ141形だ。前日、南千歳に向かう際にも特急・北斗の車中から眺めた車両ではあったがこうして再びの再会ができた事は嬉しかった。
「まぁ、撮れたのだから思い切り…」
自分にとっては最初と最後が交錯する出会いを焼き付けたのであった。

 さて。このキハ141形について、(まだ勘違いをしている段階)車両を眺めていこう。この車両は、ニッチ…ディープな鉄道ファンに愛された鉄道車両だったのである。現在も、その人気は高い。
 この車両は、新製車両ではなく『改造車両』としてこの世に放たれた事がまず特徴的なのだ。まずはそこを見ていこう。
 と…この部分がそのヶ所に当る。この車両。
『運用余剰で余った客車に運転台を装着し、気動車に姿を変えたトンデモ車両』
なのである。
 その部分がこのヶ所だ。
 高度に鉄道を愛す者には、この部分に継ぎ接ぎの運転台が感じられるかもしれない。そして、元になっている客車はというと。

※写真は本州向けにて使用されていた50系客車。機関車時代晩年まで使用され、機関車たちや日本の鉄道の近代化を最後の最後まで見守った存在であった。そして、地方や用途ごと多々の区分が存在している。

 この50系客車なのである。国鉄時代には、車体色にて『レッドトレイン』の愛称で親しまれ、北海道の耐寒用設備を施した車両や九州の冷暖房完備の車両まで、全国で走行した歴史を持っている。
 ここでは、北海道で活躍していた51系客車について話を持っていこう。
 51系客車は、昭和53年〜昭和57年に製造された客車の窓を二重窓にした、北海道用の耐寒性を持たせた客車である。
 しかし、この51系客車は長い生涯を客車として全うする事は殆ど出来ず…結局、近代化として電車化・そして気動車の投入で置き換わった現状にて余剰車両が発生してしまった。
 そんな中、JR北海道が解決策としてこの51系客車に光を照らしたのであった。それが、オハフ51形を改造し平成3年から平成7年までの期間に増備・改造を行ったキハ141形だったのである。客車の余剰車を、気動車に改造してJR北海道は非電化区間の近代化を乗り切ったのだ。

 苫小牧に留置されているキハ141形の形式記載部分を拡大してよく見てみると、この車両はキハ141形ではなく『キハ143形』であった。
「あれ?キハ141形じゃなかったのか?」
とこの瞬間には思ってしまった上、更にはこの時にはキハ141形に多数の種類がいる事をはじめて把握した瞬間であった。
 キハ141形には、キハ141形を始めとし多くの形態を持つ車両が存在している。
 このキハ143形は、
・キハ141形の走行性能を持たせたエンジンを軸にして出力を増強させた
という、いわゆる改良型の車両であった。
 なるほどそうだったのか…。
 そして、キハ143と形式の打たれている文字の上には、サボ受けが確認できる。この部分に関しては現役時代から気動車改造後も永劫に使用してきた部分であり、車両の生涯と共に歩んできたヶ所のようである。

 キハ141形…キハ143形は平成9年を最初にして、主に札幌近郊の非電化路線であった札沼線で主に使用されてきた。
 しかし、札沼線の電化が時代の移り変わりにて平成24年に完了してしまうのである、この事を受け、キハ141形はこの路線を撤退する。
 そして、その後の活躍先として新たに与えられその後の余生を暮らした場所が室蘭本線であったのだ。

 札沼線を去り、キハ141形は以降に晩年室蘭本線を室蘭・東室蘭⇄苫小牧・札幌にて活躍する事になったのである。
 中には、キハ141形だからこその履歴から
『気動車に改造された実績』
としてエンジンを搭載したスペックを買われ、そのまま北海道を脱出しJR東日本は岩手県の釜石線に転出。そして、そのままC58形蒸気機関車と手を組み宮沢賢治の創作した物語。『銀河鉄道の夜』に登場する蒸気機関車の列車を演出すべく観光列車として出世を遂げてしまった車両も存在している。
 エンジンを搭載した車両として客車に再び逆戻りしてしまったのには、釜石線の勾配が原因だった…ようだがこれ以上話すと話が逸れ過ぎてしまう。ちなみに、この北海道を脱出して釜石線で宮沢賢治の夢を叶えた観光列車として活躍したキハ141形は、既に引退してしまった。

 遠景の状態ではあるが、キハ143形をもう少し追って見てみよう。
 キハ143形の妻部分は、元であった客車、51系客車の性格を色濃く残した状態になっている。この部分だけ見てしまうと、それこそ気動車・電車化の近代的な時代の波に忘却され北海道のコーポレートカラーに塗装されてしまった51形客車のように見えるからこれがまた不思議に見えるのである。
 そして、扉に関しても客車時代同様に片開き式の引扉をそのまま引き継いでいる。また、この部分にもサボ受けがそのまま採用されており、このヶ所からも客車時代の名残を直接として確認する事が可能だ。

 この場所には、多くのキハ143形が留置されていた。その姿は駅の留置線を埋める様相であり、圧巻の迫力を見せつけてくる。
 なお、ここ苫小牧に集結しているキハ143形に関しては全て『運転台』が装着され、そしてエンジンが走行用に装着されている車両でもあった。
 しかし。そんなキハ141形の中に於いて数少ない異端的な形式の車両がおり、その車両は
『車両にエンジンを搭載していない』
『運転台を持たない』
『気動車の中間車』
と少し特異な要素を多く持っている車両であった。(気動車の中間車、という事象に関しては少なくないかもしれないが)
 その区分に該当されたのがキハ141形内のキサハ144形であった。
 このキサハ144形は、キハ141形の完全な付随車として活躍し、最後までその生涯を
『客車のような姿にして過ごした車両』
であった。晩年は先述にあったように岩手県に最後の車両が譲渡され、本州にて形式消滅している。

 改めて、キハ143形の編成を組んだ姿を見てみよう。
 拡大した写真などを撮影した後にこうして編成での姿を撮影してみると、
『エンジンが搭載されている事』
『運転台が装着されている』
などやはりこの車両。なんというか
『自走式客車』…のような雰囲気が近いのかもしれない。しかし、この場所まで来てしまうともう動かないのだろうか。北海道ではこの車両に札沼線非電化時代。そして室蘭本線での普通列車として…の仕事を与えていたが、この先。苫小牧に集結した彼らは一体どうなるのだろう。

 編成写真を撮影して更に奥の方へ進んでみた。
 奥には、H100形気動車が停車している。どうやら、キハ143形車両の留置場所に関してはこの場所が最終的なゴールだったのかもしれない。
 H100形との年齢差や、技術の差などを撮影しながら考えてしまう。片方は時代の流れで客車改造によって誕生した気動車。もう片方は、電気式のハイブリッド気動車。北海道の面白い個性を放っている車両たちの並びがこうして1枚に収まった。

撮影時間を作って

 苫小牧にて、待ち時間を撮影に費やした。北海道ではあまり大きな沿線撮影地に行けていなかったので、こうした時間尺が取れているだけでも充分大きな成果である。
 撮影したのは、昨日に長万部から乗車したキハ261系の特急・北斗。車両は白を基調にした新塗装の車両だ。言ってもこの塗装しか現在のJRには在籍してないのだが。
 前面の写真を、望遠で広大な線路と共に撮影してしまう。しかしこうして見ると、キハ261系の新塗装というのは何かマスクを被ったように見えるスタイリッシュな仕上がりになっている。

 苫小牧に停車している様子を、編成写真としてではなく1枚の写真に1両の姿を大きく残して形式写真に残してしまう。
 前面のマスクのような塗装から延長して、車両の側面の塗装はこのようになっている。側面の塗装は銀色のステンレスを強調した、少し冷たい感じの印象を感じる。しかし、コレが北海道に似合う…というか風雪を浴びて疾走するには丁度良いのだろうか。何となく、そんな気がしてしまう。
 そして、白い塗装は乗客の出入りするヶ所にも配され良いアクセントに仕上がっているのであった。
 また、この車両は撮影して気がついたのだがクローバーマークが確認できる。半室?だったかは確認していないが、この車両はグリーン車であり少し等級の上がった客室に相当するのである。

 キハ261系のマスクのように見える塗装を大きく拡大して眺めてみよう。
 この部分を作ってしまった…JR北海道の特急列車では、今や標準的なスタイルになっているこの高運転台仕様。乗客を平家に下ろして運転士が1番高い場所に座り、そこから運転を行っている状態…となるのだが、このスタイルを採用しているのにはJR北海道を襲った悲しい出来事があったのだった。

※写真の車両、253系はJR東日本の初期に登場したJR特急車両。現在では第一線を退き、長野県の長野電鉄で2100形と改番し活躍中だ。

 JR化初期に登場した特急列車を例に挙げてみよう。
 この車両、253系では乗客と運転台が同じ位置にあり、この構造を運転台が低い位置にある事から『低運転台構造』と呼ぶ。この仕様を採用している特急車両はJRでも多く存在し、JR北海道も当初はこのように『低運転台』の特急車両を製造し導入していた。
 ただ。そこに思わぬ落とし穴が存在しJR北海道を悲運へと突き落としたのである。
 それが『踏切事故』だ。高速走行中の特急列車が、トラックと踏切で衝突。この際に運転士が負傷し、生還はしたものの両脚を切断するという重傷を負ってしまった。これ以降、JR北海道では『安全性とドライバーが真っ先に救出に向かえる車両』として、運転台を乗客目線と同じ位置にする構造とは逆の高い目線に置く『高運転台構造』を採用していく事になるのである。
 その方が、高速走行での安全運転。そして、異常事態の早期発見と運転台が低い場合と比較し、大きなメリットがあるのだ。そして、万が一でも鋼鉄がクッションの役割を果たしてくれるので、運転士の安全が保たれる。悲運をバネにした理由にて、以降JR北海道の特急列車は『高運転台』を採用していくのである。

 特急・北斗が苫小牧を発車した。目指すは本州を目前にした港町、函館。列車は3時間近い道のりを、軽快な走り。そしてエンジンの高らかな唸りを響かせ走っていく。
 高運転台の構造を実際に撮影し見て、
「あぁコレが悲運の場所か…」
と思いながら見送った。両脚を切断するという大事故を乗り越えて、この顔が開発されたと思うと何か
『多大な犠牲はナントヤラ』
というか、そんな気持ちにさせられるのだ。上手くは口に出来ないのだけれど。

 そんな感傷は置いておくにして。
 電車が入線してきた。室蘭本線の主役への階段を登っていく電車、737系である。
 情景は凄く日本調なのに、こうして撮影していると…前面だけ見ていると。何かやはり欧州の電車のように感じられて不思議な気分にさせられてしまう。
 見慣れた日本の鉄道設備に、未来調な電車が入ってくる景色というのは全国の様々なる場所で経験した情景ではあるが
『未来と海外らしさ』
をミックスした情景というのは、面白く新しく新鮮に感じられるものであった。
 4つの前照灯。黄色系の帯が車両を照らしている。車内の乗客は下車の準備を始めている頃だろうか。

 737系電車がホームに入る。
 さっきまではよく見えなかった顔が、側面が。ハッキリと見えてきた。欧州チックな顔色とは反面にして、737系というのは再びのデータになるが(ずっとこのマガジンを読んでいる読者ならですが)、この737系は側面の帯が桜色になっている。
 ピンクとも似つかない、白と桃色の境界線のような色味をしているのだ。
 撮影をしたこの時間の天気は状態が悪かったのか、737系の特徴である桜色の側面の色も白のように霞んで見えてしまうのが非常に悔しいところだ。

 停車した737系電車の近くには、先ほどの項まで時間を掛けて紹介し今回は奇跡の出逢いに感動し酔い、そして多くの部分を撮影したキハ143形気動車が停車している。
 737系電車はこうしたキハ141形列の車両を室蘭本線から置き換えるべくして導入された電車であり、室蘭本線の普通列車を電化させることに成功した。
 車両としては片方に電源が入っていない上に側面だけではあるが、無理矢理にして新旧共演な状態に仕上げてみた。
 この写真にしてようやく気がついたのだが、苫小牧のホームに被さる屋根というのは実に昭和らしいというか鉄道が主役だった時期を物語っていて素晴らしいモノを語っている。そんな中に入線する737系電車の日本離れしたデザインは実に面白いのだが。

 苫小牧の撮影ホーム側に入線した737系の車両番号をよく見てみよう、と思ったので撮影してみたら『まさか』のだった。やはりそうだったか。
 JR北海道の電車・気動車には車両の付番や編成番号を示す記号や番号が付番として記されている。この737系には、『C-1』と記されていた。(気になった方、改めて確認してみてください)呼び方として言うなら、
「C1編成」
のような呼び方になるのだろうか。(聞こえ方的に)
 と思い、車両の側面まで行ってみた。車両として運命の出会いをし、そして撮り零しがないか確認したく向かった先がこの場所である。
「おぉ、やはりか」
『クモハ737-1』。製造第1号のトップナンバー。最初に製造された車両である。
「こうして出会えるのもまた運が良いなぁ」
と思いつつ、多くの車両が製造されていくであろう。そしてまだ数が少ないからこそだろう最初の若番の出逢いに感動するのであった。製造第1号の車両に出会えるというのは非常に運がよいものである。
 しかし、また撮影が良い感じに進まないのか少し霞んだままである。この737系の側面ピンク色を出すのには少し苦しんだ。

 向かい側にも737系が入線する。こちらは室蘭方面へと向かう737系電車だろうか。
 先ほどのキハ261系と同じ構図で撮影を試みたが、もう少し近寄った方が良かったかもしれない。というか、ズームを使い込みすぎて画質を完全に無視している状態で進めていた。
 こちらも欧州風の顔が際立ち、そして雪への特徴として目立つスノープロウと北海道の電車ではよく見かける連結器カバーが車両の鋭角的な格好良さを引き出していた。
 ま、写真としての魅力というかこう…奥の架線柱と信号機の感じが良いからコレはコレで良いか…

 苫小牧の駅に滑り込み、停車中の様子。
 個人的には737系の理想的というか、『自分の考えに近そう』な色の737系が撮影できた。
 737系の側面の『桜色』というのは、撮影していて『白』に近くなるのが特徴なのである。というか自分の機材が弱すぎて色のバリエーションが死ぬだけかもしれないが…
 と、弱音は吐き出して。
 737系の側面の桃系の色、というのは個人的なイメージにして『桜色であり和風の色味』なのが特徴だと思っている。この編成写真では、少なくとも自分の考えの中の737系が持っている『和風な桜色』を出せたかと思う。その後、737系は室蘭に向かっていった。

 駅撮影、最後の方にはオマケ。
 苫小牧方面でもキハ40形との遭遇があった。
 このキハ40形は室蘭本線に向かうキハ40形だろうか?恐竜のラッピングが施され、車両としては特殊な感じになっていたが、自分の向かう予定だった札幌方面とは逆の方向に停車していたので深く撮影する事はなかった。
 しかし、JR北海道鉄道グッズとして沿線を歩いていると。駅のキオスクで買い物をしているとこの車両に因んだグッズを多く見る事が出来た。
 そうした意味では北海道の看板車両になっており、宣伝されており、ある意味で『北の大地のご自慢の1両』にさり気なく指定されているのかもしれない。貴重な1両を見る事が出来た。

 そして、運転所の方にも隠れてこんなキハ40形が停車していたので上げる事にしよう。
 花咲線の車両?だったのか、こちらは明るいラッピングである。山岳の景色や明るい花々を描いているのだろうか。
『道央 花めぐり』
と記されているのが気になるが、道央を走っている。運転場所が限定されている事は確かな事がこのラッピングで判明した。
 そして、この車両に関する鉄道グッズもJR北海道管内で多数販売されていた。実際に運用に入っている姿は見なかったが、自分としては
『姿が見れた』
だけでも大きな成果だったとして胸の内に秘め、この苫小牧の朝を切り上げる事にした。

ボクの先を決めてくださいますか?

 あまりにもどうして良いか分からなかった。糸井行きで迷い込んだ結果を作ったのは自分だとしても。
 という事で、自分には先が分からず迷っている感覚が強かった。
「分からんし聞いてみよ…」
みどりの窓口に向かって歩き出し、行先を聞いてみる。取り敢えず、向かうべき場所は先に考えた。
 岩見沢にさえ行けていれば良いのだろうから。
 朝の時間、通勤客に特急券を発券し終わった窓口に向かって疑問の霧を頭に孕んだ状態で質問する。
「すいません。岩見沢に行きたいんですがどうしたら良いでしょうか…」
あまりにも自信がないというか、道外民だとして丁寧に教えて欲しく関西弁・関西訛りで質問する。
「岩見沢でしたら、3番線にまいります特急すずらん3号に乗車いただきまして、札幌で少々の乗換でございます。そこから特急カムイ7号に御乗換いただきまして、岩見沢ですね。」
「ありがとうございます。(ベタベタ関西)」
 そして、更には
「迷わないように」
との多大な御配慮で感熱紙印刷であったが列車行程を印刷したレシート状の乗換案内を発券して下さった。本当に嬉しい。ありがたい。
「ありがとうございます。すずらん3号ですね〜」
そのままベタベタ関西イントネーションでその場を離れた。セブンイレブンに向かう。
 しかし、朝の食事に自分の胃が興味を示すものがなかった。そのまま行こう。

 さて、特急列車に乗車していこう。
 やってきたのは785系。スーパーホワイトアロー特急・すずらん3号である。このまま乗車し、千歳市を越えて札幌の街中を目指そう。
 個人的には北海道での電車特急というのは多く乗車した(車種が少ないので多いイメージ)が、この車両が入線した瞬間ほど大興奮した瞬間はなかったろうと思うくらいに大興奮した。
 脳細胞に眠る5歳児か小学生頃の自分が叩き起こされ覚醒し、
「すーぱーほわいとあろーやぁぁぁああああ!」
と今にも突き指しそうな勢いで785系を指差している。なんだろう。平成世代の読者に伝わる感動?で言えば、山陽新幹線にを利用していたら出張で500系新幹線を引き当てて幼い頃の感覚を思い出すアレです。アレに近い。図鑑で見ていた列車とこうして出会える感動の大きさは幾つになっても尊いのである。

 乗車前にもう1枚。幼い頃に乗り物ビデオで感動し、その鮮烈な格好良さに撃たれていた自分だったが。もうそんな道からは完全に外れてしまった。真っ当な男の子には戻れない。健全な男になんて復旧不可能だ。こんな場所を知っているから。
 そう。不可能などない苗穂工場によって改造されてしまった、785系の元・運転台部分なのである。この部分を785系乗車前には撮影しておきたかった。幾多の歴史、そして編成組み換えを経て785系にはこの運転台を閉鎖した部分が存在している。
 この部分は、かつて増結車として走行していた部分。かつてはこの先の分割や解放も見越してスカートや運転台の設置などもあったが、今では完全に閉鎖されてしまった。
 しかし、この車両は改造までして生き残っている。というか生き延びている。
 なぜ、このような処置をしてまで使用する事に拘るのか。それは、
・かつて使用していた車両だけ走行距離が短く廃車が勿体無いから
というのが理由である。
 元々、785系は平成12年まで基本編成・増結編成と分割された状態であった。しかし、その役目は時代を追って終了。編成は固定化され、遂に運転台の機能まで失ってしまった。
 …と結果的には30年近い生涯を走り、北海道の電車特急では大御所格にまでなる785系。その車両の道は789系に挿入されて青函トンネルをスーパー白鳥で走行。新千歳空港から旭川までのロングランを走行し快速・特急の兼業をこなすなど。その職種の多さは多岐に渡っていた。
 しかし、現在は旭川にも入線せず静かに室蘭本線で活躍するのみだ。車両数も20両以下にまで減少し、その幅は更に狭さを極めるのみである。

 そんな大御所特急電車による、785系の特急・すずらん3号に乗車。
 列車の車内はビジネス客で混雑しており、とてもではないがバブル期の北海道特急の姿や旅情に浸る暇はなかった。
 自分の近くに座る乗客も忙しなくテイクアウトで買った朝食を頬張り、そして朝のビジネスワークを車内でひたすらパソコンに向かっている。
 自分はそんな車内を頭を2回ほど下げて、女性会社員の近くに座って札幌を目指した。
 列車は混雑する通勤の修羅場の中。
 旅人をこんな車内の隅に受け入れて良いのだろうか…?
  記憶から飛び出した列車は、矢のように札幌の中心部を目指して走る。

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