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ACT.66『宗谷滞在〜豊富編②・稚内編〜』

木造の番人の姿に

 豊富の駅前には、平成2年まで北見で活躍し戦前の木造客車以来の日々を駆け抜けてきた救援車・オエ61-67が保存されている。
 保存…なのかどうかは訪問してみて自分の目で確認し、意識としての問題になってくるのだろうが何かこの客車の主張は薄いように思われた。
 既に前回記事の方でも残しているのだが、この客車の年代。経過した日々は想像以上に車体へのダメージを与えている。ボロボロになったその姿は、見るに堪えない状況だ。
 しかしなんとしても、貴重な木造客車である22000系列からの改造。そしてマニ60形の原形を大半に残している客車として、多くの注目を浴びていただきたいものだ。
 かつて。調査をしていると、このオエ61-67の側面に『救援車』・『オエ61-67』の白いフォントが記されていたという。しかしそうした証拠の方も、現在は消失しこの車両が一体どのような役割に奔走したかは知る人ぞ知るのみだ。
 訪問した折には曇天の空模様で、車両近辺には工事の装いだけ。静かながらも、発展する町を見つめる空気だけが漂っていた。

 車両を側面から眺め、町に続いていく景色を眺める。
 この客車を目当てに訪問した自分以外、この場所にいる人は誰もいない。
 客車付近には安全の為の柵などが張られているのだが、安全の柵を張って車両を防護する…というよりかは、車両の崩落を更なる人的被害として防ぐ為。柵が張り巡らされている印象をなんとなくながら感じた。
 特徴的な木造客車時代譲りの4枚窓から、駅側の車窓が映し出されている。
 この客車の功績を知り、そしてマニ60形であったその車歴に接してこの場所を訪れる人は今どのくらいいるのだろうか。
 長く長く続いていく道と、既に番人と化したオエ61-67の姿を見て、自分は
「来る場所まで来たもんだな」
と何か感慨のような。そして自分に長く歩んだ道の時間を思ったりした。

 車両の旭川方面には、こちらにも観光案内所として木造の小屋が設置されている。
 現在の観光案内所は駅併設で別に機能している為、こちらの設備に関しては使用しているのか、見ているところ怪しい。
 車両と共に機能していたのだろうかと、この構造上では考えさせられるのみだ。
 横に設置されているシャッター小屋には、何が格納されているのだろうか。除雪車であれば、この記事を記している冬季には出庫し、冬の豊富を守る存在として頼もしい役割を果たしているのかもしれない。
 だが見てみると、いかにもバブルなデザインの観光案内所だ。看板の少しだけ垣間見えるそのデザインを見る限りでは、この観光案内所はバブル時代に。旅の移動が多かった時期に建設されたのだろうか。
 鋼製車体になり、木枠で張られている客車…と対比すると、この建物はまるでこの客車の佇む線路の駅舎かのように機能しているように見えた。
 前回記事にはこの客車がライダーハウスとして使用されていた…と記したが、この建物も客車の設置と同じような時期を歩んだのかもしれない。

起爆剤

 古びた客車…ばかりを撮影し、あくまでも駅前だけで過ごしていた自分だったが、この駅には観光要素。そして観光への発展となった起爆剤が存在する。
 前回の記事にも記した、『温泉むすめ』の存在だ。
 現在は静かになり、人の流れが落ち着いている豊富町を救い、イベント開催時には全国規模で訪問客を呼び込む存在になっている。
 先ほど、観光案内所は『駅舎と併設されて営業している』と記したのだが、今回はそんな観光案内所(新)にも世話になった。
 JR北海道の販売する、北の大地の入場券の購入だ。
 北の大地の入場券。各駅の窓口などで販売されているのだが、一部の駅では窓口を持っていない。または駅員の配置をしていないとの事で、この入場券を購入する際には『委託販売』として観光案内所やバスターミナルなどでの販売が実施されている。
 自分の訪問で委託販売をしていたのは、豊富の他に記憶では栗山だけであった。栗山に関しては買うか買わないかギリギリになって迷ったのだが、現在では買わなかった事を大規模に後悔している。やはり買わずに後悔とは言うものだね
 と、観光案内所の委託販売で入場券を購入。この際に、入場券販売として200円の商品購入…にレシートが発行されたのだが、この場合はしっかりJR北海道に利益が回るのだろうか。気になるところだ。

 入場券を購入し、観光案内所を物色しているところで、丁度『温泉むすめ』のグッズを発見した。しかも大から小まで様々な種類のグッズを展開。その商品数の多さにも驚いた。鉄道からのアクセスも良し。そして留萌方面からのバスもこの豊富には立ち寄るので、交通アクセスの良い場所でグッズを販売している。
 前回記事にも記したのだが、豊富温泉の温泉むすめの名前は『豊富水由』である。
 キャラクターの特徴として、農業・漁業などの知識が多く。そして他にはロードレースにも挑戦している温泉むすめだ。自転車と共に映っている商品を幾つか発見したのだが、こういう事だったのか。
 口癖は「結果オーライ」であり、細かい事へのこだわりを持たない温泉むすめ…だ。
 誕生日は5月17日の牡牛座。そして身長は167センチ。血液型はB型である。特技は皮膚病を中心に、病気に最適な民間療法伝えられる事…であり、豊富温泉の効能。そして世界でも希少な油分を含んだ温泉である事への特徴が反映されている。
 好物は町の名物、豊富牛乳にホッキ貝。秋鮭である。苦手な事は自然環境の悪化…である。
 そして、この豊富水由のキャラデザを担当したイラストレーターがX・Pixivを中心に話題になり人気を集めているイラストレーター、千種みのり氏である。
 また、豊富水由の声を担当している声優さんもおり、担当の声優は花井美香氏だ。
 先ほども記したように、この豊富水由による経済効果、観光への影響は大きなものとして伝播し、日本中から観光客を呼びあつめた。生誕祭などでは80名近くの来場を記録しているという。
 今後も目が離せない観光産業だ。

 駅構内に入る。
 豊富の駅には喫茶店があり、この喫茶店で昼の時間にしようかと悩んだが、結果的には止める事にした。12時に特急列車の時間が来る。
 駅前保存のオエ61-67の観察。そして観光案内所での物色…とちょうど時間は持て余せただろうか。良い塩梅になった。
 写真は豊富からの駅運賃表だ。既に稚内は射程圏内に入っており、多少の金額はかかるもののあと少しで宗谷岬の範囲までやってきた。感動が抑えられないと言うのだろうか。何か言い知れぬ気持ちにさせられた。
 旭川まで引き返すには8,000円近くの金額。そして札幌・新千歳空港まで引き返そうものであればその運賃は10,000円を目前に切る範囲まで来ている。(というか新千歳空港に関しては10,000円を突破しているが)北海道の広さ。そして、改めて6日近く乗車が可能な道内フリーパスの効果に感動させられた。正直、ここまで太っ腹に道内を鉄道で周遊して良いのだろうか。更に指定席券も発行可能(制限付き)なんて、商売の良さが過ぎると言うものではないか。
 1枚の運賃表から、吸収するには多過ぎる情報量を吸収していた。

捉えた行き先

 12時発、特急列車の宗谷に乗車する。豊富の発車時間は既に12時なのだが、札幌は何と7時30分に発車している。どれだけのロングランをキメているのだろう。
 曇天の中、自然に茂った線路の中からゆっくりとキハ261系が現れる。いよいよ、宗谷岬まで乗車する列車はこの1本だけになった。
「遂にかっ…!」
その思いに惹かれ、自分は停車した列車に乗車した。特急宗谷号、稚内行き。最北の駅は、すぐそこまで迫っていた。
 車内は多くの乗客を乗せていた。空席を探す方が難しい…?というのは言い過ぎだが、座席は片側だけが空いていたり家族連れに大荷物を詰め込んだ乗客が着席していたり、とさながら観光の客層になっていた。乗車しているうちの何人が、札幌や岩見沢といった大都会からこの最北の町を目指しているのだろうか。

 豊富で客扱いをした列車は、キハ281系譲りの高加速力で北海道の原野を貫き走っていく。
 ここから先、豊富を発車すると兜沼、勇知、抜海…と走り抜き、南稚内に停車していよいよ稚内に停車だ。
 なんとか車窓側の座席に座れたので、余裕を感じつつも寛いでみる。
「牛とか農業機械は見えるもんかなぁ…」
と宗谷本線では何度か眺めてみたが、そもそもの事あまり見えなかった。前回か前々回かで掲載した写真にも、牛が牧草を食べる車窓の様子を記録したのだが、その際に関しても何か作り物っぽいようなイメージを受けた。なんというか、車の方が遭遇しやすいのだろうか。
 そういえば。宗谷本線の中には秘境駅があって、幌延町は自治体内で最も多くの秘境駅を持っていたけどこの先。抜海駅というのは廃止が囁かれているんだっけか。
 去就にも今となれば、思いを張らせてしまう。
 しかし、そんな抜海駅の様子などは気に出来ずもう手前である南稚内にまで来てしまった。早過ぎる。まだそんなに心の準備は出来ていないのだけど。

 列車は南稚内を発車し、いよいよ稚内のすんでのところまできた。
「…まもなく、執着。稚内です。」
深みある男声、大橋俊夫氏による自動放送が告げられ、いよいよ13時を目前にして稚内到着の案内となった。
「遂にこの場所まで来たか…!」
自分の魂の高鳴りというのだろうか。唸りというのだろうか。大きな思いに包まれて到着した。
 どんどん、町らしい様子になっていく。列車はそのままゆっくりと速度を落とし、稚内に滑り込んだ。
 キハ261系特急宗谷にて。13時を目前にして、日本最北端の駅に到着した。

最北端よこんにちは

 稚内に到着した。流石に、この稚内到着時には気持ちも一層に引き締まるというものだ。
「あぁ〜着いた!」
何かこう、胸を打つ感動というか、ようやく来たのだなという気持ちに支配された。
 この稚内に到着すると、宗谷本線しか残らずそして後は戻るだけとなる。本当の意味の最北端にやってきたのだ。
 しかし、稚内に到着して感じたのだが、同じく日本最◯端の駅として西大山を目指した駅よりも感覚というか手応えはやりやすかったように思う。何かここに関しては完全に個人差だと思うのだが。しかし何にせよ、特急列車に乗車して後は時間さえ長くなってしまうが、札幌近郊からも迎えるのはこの駅のアクセスが良い証拠ではなかろうか。
 皆さんも気が向いた時には。そして身近な達成感を味わいたい時には、札幌から特急宗谷に。そして旭川から特急サロベツに乗車してみてはいかがだろうか。(そう簡単ではないのだが)

 稚内に到着した時は、景色が爽快に晴れ渡っていた。豊富や音威子府といった場所で冴えない曇りを見せていたお天道様の気まぐれは、一体何だったのだろう。
 そして、この駅にもJR北海道定番のサッポロビール看板が設置されている。フォントに相まって、側面を錆が侵食しているのが見ていて何か心地よい…というか、この駅の年輪のようなものを感じさせてくる。
 そして、この駅に到着した時。多くの観光客らしき乗客たちが降車した。
 地元の乗客や生活利用の人々の利用はあまりないようで、そこに関してはもう完全に観光や一時の旅人の需要に委ねられているような実感を感じさせられた。
 しかし、外国人も日本人も観光客がこの駅で多く下車していったのは個人的に驚きだった。まさか日本の観光や、日本を周遊する旅をするにしても…というか、こんな北の端まで訪問するような需要が回っているとは思いもしなかった。
 個人的には観光地で暮らしているのもそうした感情の1つなのだが、何がここまで外国人の心を日本に引き寄せてくるのだろう。

 稚内の駅に下車すると、
『ドコドコから何キロかかったか』
といったような看板が立っている。
 この看板は札幌からのものだが、札幌からでもその距離は300キロと離れている。同じ北海道ではあるのだが、ここまで離れている事には本当にビックリというか、何回も滞在中に感じている事にはなるのだが北海道の県としての広さを痛感させられるばかりである。
 旭川〜札幌の移動距離がある意味で名古屋〜長野間の移動と同意義だったと現地で知る事も含めて、北海道では『壮大』という言葉を何気なくではあるが思わせてくる。本当に我が国の大きさや表情に感動の域を走らせてばかりだ。
 ちなみにだが、この『札幌駅より』以外には『函館駅より…』として703キロとの距離が。そして他には本州の域にまで突破し、『東京駅より…』として1,547キロの距離を示している。どれだけの長い長い線路なのだろうか。
 今改めてして、自分の到達した長さを感じてばかりいる。
 ちなみにだが、『日本最南端』としての距離に、西大山駅を有する指宿駅からの距離指標もあるのだが、『指宿駅より…』では3,057キロと記されていた。(注:何れも小数点が表記されているが今回は除外して表記)

※筆者は同じ令和5年に逆の『日本最南端・指宿』を訪問している。その際の記事は九州連載を通してご覧いただきたい。指宿は稚内と異なったターミナル性を持っているのが面白い。

 因みに、ではあるがこの稚内と指宿では『日本最北端』と『日本最南端』に因んだ友好都市締結として、平成24年の4月に互いの姉妹関係的なものが結ばれている。
 実は筆者も指宿駅までは既に訪問しており、しかも稚内到達と同じ令和5年の訪問であった。その際には指宿も盛り上がっている観光地である事を頭に刻みながら、同じく
「よくここまで来たものだ」
と噛み締めたのだが、やはり稚内まで到達した時に感じる壮大なる思いにはなんというか、指宿を軽く凌駕するものがあった。
 なお、日本の鉄道にはこのように『さいはて』記録をもった駅がそれぞれ語り継がれており、旅人の記録に憧れの1つとなっている。
 自分が現在訪問している稚内の他にも、北海道には『日本最東端の駅』として東根室が上がっている。こちらに関しては鉄道での訪問が難しい…上に無人駅であり、稚内のようなターミナル性はない。
 そしてもう1つ、JRではないものの『さいはて』の記録を保有している会社があり、『沖縄都市モノレール』に関しては、『日本最西端』の記録として那覇空港駅がある。(日本最西端は松浦鉄道・たびら平戸口駅でもあるのだが)また、沖縄都市モノレールの場合は那覇空港の次駅が同じく『さいはて』記録の駅であり、赤嶺駅が『日本最南端』である。
 こうして記録を保持している様々な駅たちだが、自分の中では記録を持っている駅たちの訪問がそこまで進んでいるわけでもない上、旅に自分を捧げるようになってからはまだまだだ。これからも多くの記録や旅の足跡を伸ばしていきたい。

 稚内に話を戻そう。
 やはり稚内といえば、この看板になるのである。学校の図書室や地元・京都の図書館にしろ。何度この看板が記された本を読んだのだろうか。感動は本当に一入なのである。
「遂に来た…ここまで本当に長かった…」
幼少期に夢を馳せている自分に、ここまでの事を20代半ばで成し遂げている事実を伝えると、どのように感動を受け止めてくれるのだろうか。そうした思いには駆られるばかりである。
 しかし、写真で写っていたキハ183系ではなく…既に車両はキハ261系になり、時代の変化すらというのか、時代の歩みすら思ってしまう自分が図鑑を読んでいた時期は、バリバリにサロベツがキハ183系の時代だったように思う。どうだったろうか…

変わる駅の姿

 改めてして、看板の撮影に。この看板は、鉄道ファンのみならず観光客。そして全国を渡り歩く旅人たちにも撮影の対象となり、稚内の観光スポットにもなっている。生涯、一度はその看板を拝みたい…とでも言うべきなのだろうか。
 しかし、稚内の姿というのは。最北の鉄道拠点は、既に変わり果てた姿になってしまった。じぶんが図鑑でこの駅とこの駅が日本最北端であると知った時と、この駅の時代の歩みは全く異なるものであった。

 稚内駅…はかつて、2線の線路を持ち、列車も2本分を停車させられる事が可能な頭端式の駅になっていた。
 しかし、平成24年。駅のリニューアルによってその姿は失われてしまう。最北端の駅は、棒線の駅となり現在は
『到着した列車が折り返さなければ次の列車は入線できない』
状態にまでなってしまった。
 代替として、南稚内駅が行違い駅の役割を果たす事になった。稚内の手前にある小さな駅ではあるのだが、特急も停車する。しかし、担う役割は大きなものであり機関車式の牽引列車が入線した際には前駅・南稚内で折り返し…機回しの作業を実施して折り返す事になる。運転台を装着する列車に関してはそのまま稚内に入線して時間になれば折返し…の措置になるが、機関車式の列車であれば機関車を方向転換さす必要が生じる為、南稚内までしか入線が出来なくなってしまった。機関車のデメリット、動力集中方式が招く事になってしまった弊害である。
 さて、ここから次に目指していく場所がある。ここまで来て仕舞えば、行く場所に関してはたった1つしかないだろう。ここから交通手段を乗換え、先に歩み続ける。

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