また来る朝
がらがらと音を立てて開閉される玄関扉、くもり硝子の向こうが白くなる。私の水槽にもどこからか光が差し込み、屈折しながら底に敷かれた石の粒を照らす。酸素を送るモーターの音しか聞こえていなかったのが、生活音にかき消され、動く音、歩く音、話す音、喧しい。やってきた、朝だ。
少し経つと、ばたばたと最も水に響く音が来る。動じない。寧ろ、これがあって初めて朝の出勤を実感するほどだ。
「おまえ、ほんとばかみたいな顔してるね」
地響きにも似た足音が止めば、今度はそんな台詞と私の朝食が降ってくる。橙色の柔らかい物体、フレークと称されるそれの舞い踊る姿。何もかもが同じ、私がそれを咀嚼する様子へ、彼女は満足そうに歯を見せる。
そうして彼女は玄関を飛び出してゆく。毎日同じ服、毎日同じ鞄。靡く黒い髪。
廊下の古時計がぐるぐる回る。時折なんの前触れもなく鳴る鐘が古い家を震わせる。
くもり硝子の向こうを誰かが黒く塗った。しかしそれは決して闇の訪れではなく。私の光が現れる前触れである。
「ただいま」
後ろ手で扉が閉まる。靡く黒い髪。朝と違う服、薄汚れた鞄。すぐに気が付く。様子がおかしい。
私への夕餉は忘れ去られ、重い足取りは上がり框を踏みしめる。
「汚れちゃったから体操服で帰ってきた」
薄く伝わる声音は明るく。しかし途方もない悲壮を孕む。人間にはわからない、微々たる音波の違いが苦しい。
空腹など気にもならない。ただ、光のぼやけた私の希望が気にかかった。
くもり硝子の向こう側は暗いまま。時計が回る。
「おまえ、今日はまた一段とばかみたいな顔してるね!」
翌朝は面食らった。
昨日はごめんね。えさやるの忘れちゃった。おなかすいたよね。
言葉とフレークが落ちて、水面を揺らす。舞い踊って私の下へ届く。いつもより、量の多い朝。
飛び出していった彼女は昨日の様相をゆめまぼろしに思わせた。
そうして何周も、何百週も時計は回った。
それ以降、彼女の光はぼやけない。眩く私の水槽を照らす太陽であり続けた。
毎日来ていた同じ服は時折違う服になって彼女を帰宅させた。ともだちとあそんでたらぬれちゃった。障子の奥から伝わる声はいつも同じ形をしていた。
そして今日もまた、くもり硝子の向こうが白くなって、水槽の底の石が照らされた。生活音が喧しい。朝だ。
不意に、ふたつの黒い円が私の水槽を覗いた。いつもとは、時計の針の位置が違う。
じっと見つめる視線。朝餉を振りかける気配も無ければ、ばかみたいだと罵る素振りも無い。
私も彼女をじっと見つめて、口をぱくぱくと開閉させてみた。言葉を知らない私には、彼女へこんなことしか伝えることができない。鰓呼吸が不甲斐ない。
「なあに、急に。朝ごはんのおねだり?」
様子がおかしい。ぱくぱく。どうしたんだ、何かあったのか。ぱくぱく。
「今さら、意外とかわいく見えてきた。なんか、もうおそいのにね」
彼女の光は眩くなどなかった。闇に喰われた心を覆い隠す仮初の太陽。気付いたところで、私にはなにもない。無力。ただ、無力!
「昨日なら愛してあげたよ。おまえも、あの人たちもみんなね。昨日なら、愛したのにさ」
私の光を、誰かが黒く塗りつぶしてしまった。それは闇。それは途方もない絶望。それは靡く髪の色。くもり硝子の向こうに消える後ろ姿に、モーター音が苦い生を奏でている。
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