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思い出すことは、愛することなのかもしれない

生きているひとが死んでしまったひとのことを思い出したとき、天国にいる死んだひとの周りには花が咲く。

そういう趣旨の文章を、この春に入ってから幾度か見かけた。どこで見かけたのかと訊かれたらここだとはきっぱり言えない。おそらく何かの作品やら、ネットやどこかで見かけた文章だと思う。

私は花と呼ばれるもの全般を漠然と好きだから、この文章を読んだときも、それならば大変すてきろう、と思った。たくさん思い出したぶんだけ死者の周りに花が咲くのなら、死んでしまったひとも生きているひとも、すこし気持ちが明るくなるような気がした。

けれど、もしかしたら花が好きじゃないひとや花粉症のひとは、周りが花まみれになるのは好ましくないんじゃないかしらとか、花にはたくさんの種類があるわけで、一体どの花が咲くのかとか、そういうことを考えてしまうあたり、詩的で抒情的なものに全振りというわけにもいかないらしい。

***

大学のときに出会ったある友人が卒業のときにくれた手紙は、便箋12枚にもなる超大作だったのだけれど、そこにはこんなことが書いてあった。

「私は誰かに対する愛情表現を、自分の大切なものをあげるとか、相手のことを考えて選んだものをあげるというやり方しか知らなかった。でもあなたの愛情表現には、相手のことを思い出す、連想するというのがあって、それは私の知らないものだったから、とても驚いた」

記憶を頼りに書いているのでやや不正確な記述になっていると思うけど、彼女はおおよそそういうことを書いてくれていた。

私は特定の何かを見たり聴いたり嗅いだりして、ふと誰かを思い出すことがよくある。誰かのことを考えていて、そのひとにまつわる何かを思い出すというより、何かを見て誰かのことを連想することのほうが圧倒的に多い。noteでも、何かをきっかけに思い出した誰かのことをよく書く。

私の日々には、今まで私と出会ってくれたあらゆるひとびとの記憶のかけらが散らばっている。たとえそのひととの思い出が私にとってよいものであろうがわるいものであろうが、そんなことは関係ない。

私は何かを見てふと誰かに思いを馳せる瞬間を愛している。けれど、私は今まで、なにかを見て誰かを思い出したり連想したりすることが、その相手への愛情表現なのかもしれないと考えたことはなかった。

だからこそ、彼女からの手紙に、私のその行為が相手に対する愛情表現の方法のひとつなのだと記してあったとき、私の方が驚いたし、しかしどこかでは腑に落ちた。

どんなに身近なひとでも、もう二度と会わないかもしれないひとでも、そのひとのことを思い出して立ち止まる一瞬が、たしかに私は愛おしくて仕方がないのだ。自分の中で勝手に結びつけてしまった、誰かと何かの連想の糸をたぐるのは愉快である。

そのひとの当時の姿や声を思い出したり、今のそのひとを想ったりしても、もちろん相手には届かないことの方が多いし、相手のためになどなりはしない。だってそれは私のエゴでもあるのだから。私はそのひとのためにそのひとのことを想っているわけではなく、私自身のために、勝手に相手を想っているのだ。

時間は過去の人物と記憶にフィルターをかけて角を丸くしてしまう。だから私はどんなに傷つけあった相手との記憶であっても、ある程度微笑みながら思い起こすことができる。そんなこともあったね、今あなたは何をしているのかな、愛する誰かとしあわせでありますように、元気でいますようにと、願うことができる。たとえ相手の方が私をだいきらいで、憎しみを持って思い出すとしても、だ。

それは私の持っている感受性の、鈍くて、しかしとても強いところでもある。

そう考えたら、彼女が言ってくれたように、誰かを思い出すことは愛情表現のひとつなのかもしれない。

***

生きているひとが死んでしまった誰かを思い出したとき、死者のまわりに花が咲くならば、生きている誰かを思い出したときにもすてきな何かが起きたらいいのに。ちょっとラッキーなこととか、うれしくなっちゃうようなこととかが。花じゃなくてもいいから何かが咲いたり、雨に困っていたらちょっとだけ晴れて虹が出たりしたらいいのに。

そんなことが起こり得るならば、私は、今まで私と出会ってくれたあらゆるひとに身に覚えのないラッキーな出来事を贈ることができるはずなのに。

そんなことを考えてしまうくらいには、私は毎日飽きもせず誰かのことを思い出している。


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